ほうこうレポート

ほうようポケモン、こうもりポケモン。

【物語】双頭のスプーン

はじめに

本作品には一部に陰鬱な気分の描写・架空の薬物の描写・肉体的苦痛の描写・間接的な死の描写が含まれます。
このような描写が苦手な方、気分の優れない方は閲覧をご遠慮いただくなど充分ご注意ください。

第1話 新月

ジュー、と平坦な音が小さなキッチンに響いている。

小さなフライパンを右手に、買い換えたばかりで新品の菜箸を左手に持って、女はじっとフライパンの中身を見つめていた。

フライパンの中の一様に黄色い液体を、菜箸がくるくるとかき混ぜる。

「卵、絵の具みたい……黄色、カドミウムイエロー、だったっけ」

誰が聞くでもない女の独り言を壁が波として跳ね返す。

「もう美味しそう……さすがヨシノコーチャモ」

女は上機嫌な様子で絆創膏のついた右手を振るう。

その背後では、つきっぱなしのテレビが勝手気ままにしゃべっていた。

『政府が研究用ポケモンを一部に限定しなければ科学はもっと発展していたはずなんです!』

『しかしその制限を解禁して仕舞えば多くのポケモンが研究と称した虐待行為にあってしまうでしょう?』

『現状科学者は既に自分のポケモンとして研究対象を入手して、研究用でないポケモンたちの研究も行なっています。研究用ポケモンの制限とポケモンたちの扱いは別問題として対処するべきでしょう』

スクランブルエッグから卵と砂糖の混じり合った甘い香りを感じて女は複数回小さく頷いた。



ピキッ。



何かが割れる音。

「……ん?」

女が顔をあげる。

しかし、音はしなかった。

「……聞き間違いか」

女はまた俯いて調理を再開した。



ピキピキッ。



女は再度振り向いた。

長い黒髪が勢いよく跳ねる。

今度は鳴り止まなかった。

何度目かの音で女はその音の正体を察する。

「ちょっ、まってまってっ……!」

慌てた様子で女はキッチンを離れる。

女はタオルの上に置かれた大きな卵に駆け寄った。

卵にヒビがまた増える。

女は形を崩しつつある卵に優しく手を触れた。

「頑張れ~……」

女の口から柔らかな声が漏れ出る。

そうして幾度か卵を撫でているうちに、卵が光り輝き始めた。

きゃっ、と女の声が揺れる。

一瞬だけ部屋は光の海になって、すぐに光の波は引いていった。

「……しぃ!」

目を開けるよりも先に、女は可愛らしくも力強い鳴き声を聞いた。

恐る恐るまぶたをあげた女の瞳に、タオルにちょこんと座る、生まれたばかりのポケモンが映った。

女の口元から笑みが零れ落ちる。

女はその最上級の笑顔のまま、生まれたばかりのポケモンとそっと目線を合わせた。

「これから、よろしくね。ケーシィ!」


第2話 立待月

日が傾くのもだいぶ早くなってきたな。

西の青空が少しずつ朱に染まってきている。

しばらく虚ろに天井を眺めてから、ゆっくりと体を起こす。

住みかとしている洞穴から出てみる。

「っ……」

あとは真っ逆さまに地平線へ墜落するだけの太陽が最後の抵抗とばかり輝いていた。

右腕から伸びる二股に分かれたスプーンの一方がその光を反射して私の目を炙る。

2つの頭を持つスプーンに、指の分かれていない手。

もう見飽きるほど見た。

光を目に照射する醜いスプーンから目を逸らして太陽の反対側へと目をやった。

……珍しい。

子供が4匹、まっすぐこちらへと歩いてきていた。

リオルにフォッコモノズにオタチ。

強い太陽の光の中で4匹も輝いていた。

よくまあ、こんな辺境に。

体ごと向きを反転させて洞穴のすぐ傍に目をやる。

眼下に広がるのは青というよりも黒々とした深い海。

ここは森の最北端。

対して多くのポケモンが暮らしているのはここよりもずっと南の、森の中心部。

中心部からここまでは確かに来られないことはないが、こんなところまで来たのはまた何故なのか。

「……あ! ほんとにいたよ!!」

そんな声が聞こえて、私はゆっくりとサイコパワーで移動して、また体ごと振り向いた。

他に「いる」と言われるようなポケモンもいないし、恐らくは私のことだろう。

子供たちはまだ明るい太陽を背に、こちらに走り寄ってきている。

「あのっ!」

先頭きって走ってきているリオルが叫んだ。

「どうしたんだ、こんなところまで来て」

思っているよりも私の声はかすれていた。

しばらく声を出さないうちに、喉はさらに弱っていたようだ。

フーディンさんですか!?」

リオルは走ったせいで荒ぶる息を整えもしないで、私に聞いてきた。

「あぁ。そうだよ」

頷こうとしたが、首が前後に震えただけでうまく頷くことはできなかった。

サイコパワーを使って頷く動作にはまだ慣れていなかった。

首から上も、最近はサイコパワー無しでは動きづらくなってきたから、練習が必要だ。

「キミたっ——」

不意に真下から突き上げるような衝撃が私を襲った。

子供たちにかけようとした声は中断を余儀なくされる。

吹き飛びそうになるのをサイコパワーの出力を上げてなんとか留まる。

どうやら走ってきたモノズがそのままぶつかってきたようだ。

「いってー……」

それはこちらのセリフだ、と言いたいところではある。

だが、モノズという種族は目が見えていないからこうやってぶつかって物を探すのだということは、私は本で見て知っていた。

モノズも悪意があるわけではないし、仕方がないだろう。

モノズ!! ……だ、大丈夫ですか!?」

リオルが私を見上げた。

「あぁ……大丈夫だ」

「お前フーディンか!?」

ぶつかったことなど気にも留めず、モノズは子供っぽいわんぱくな口調で問う。

「オレ、ニンゲンの話聞きたいんだよ! 聞かせろよ!」

――ニンゲン。

その言葉を聞いて、私は身震いした。

嫌いで嫌いで仕方ない、のではない。

むしろ、逆。嫌いになんてなれるわけがない。

「どうしたんですか?」

リオルに呼びかけられてハッと目を覚ました。

いつの間にか私の目は見開いていた。

「あぁ……いや。なんでもないよ。それより、なんで……そんな話を?」

「わたし、ニンゲンを見たことないからどんな生き物なのか知りたいんです! でもニンゲンのところに行くのはダメってママが……」

「それで、フーディンさんってポケモンがニンゲンのことを知ってるって聞いたから来ました!」

フォッコとオタチも追いついて、後ろから付け足した。

「オレはニンゲンのポケモンだったんだってよ。もともとは。覚えてないけどな」

「……ほう」

わざわざここに来るほどニンゲンに興味があるわけか。

ここで生まれてここしか知らないポケモンも、ニンゲンの元で生まれて自我のないうちに捨てられたポケモンも関係なく。

……これはチャンスなのかもしれない。

ならば話すとしようか。

できればこの子達が野生のポケモンとニンゲンの架け橋となるように。

「お願いです! ニンゲンのこと教えてください!」

リオルがぺこりと頭を下げる。

他の3匹も同じようにお辞儀をした。

「……よかろう。こちらへ来なさい」

私は4匹を先導して洞穴の中へ入った。







私は洞穴の奥側にある岩の台の上に少し浮かんで静止していた。

目の前には緊張した面持ちの4匹の子供。

洞穴と言っても、そんなに奥行きがあるわけじゃない。

私1人でちょうどいいくらいのスペースに、こんなに狭苦しく4匹も並んでいるなんて初めてだろうか。

まぁなんでもいい。……何から話したものかな。

目を瞑って思案を巡らせていると、「あの」と控えめな声が耳を打った。

「ん、なんだい」

フーディンさんはなんでニンゲンについて知ってるんですか?」

「私はニンゲンの元で生まれて、しばらくニンゲンの元で暮らしたんだ。もう数え切れないほど前のことだが、今でもあの日々は鮮明に覚えているよ」

「へぇ~……!」

フォッコは興味津々と顔に書いてあるくらいに目を輝かせていた。

「そうだ、私と暮らしていたニンゲンの名前を教えよう」

私は4匹へ向けてテレパシーを送った。

ニンゲンの言葉は私の口で発することはできない。

――アビス。

いつぶりだろうか、この名を呼ぶのは。

テレパシーでニンゲンの言葉を話せるようになって以来、一番口にした言葉だろう。

「ん……んん??」

「なんて言ってるの……?」

子供たちは困惑していた。

初めての言語を聞かされれば誰だってそうなるだろう。

もしかしたらテレパシーが初めてのポケモンもいたかもしれない。

「アビス。さっきのはニンゲンの言葉で言ってみたんだ」

「それが、ニンゲン?」

「いや。ポケモン1匹1匹の名前が違うように、ニンゲンも一人一人名前が違うんだ。――アビスは、私と共に暮らしたニンゲンの名前だよ」

「ふぅん……」

よくわからない、と言いたげな表情でリオルはこちらを見つめた。

「じゃあさ」「なぁ」

リオルとモノズの声がかぶった。

リオルとモノズの視線がバチリとぶつかる。

「オレが先に聞いたじゃん!」

「ぼくだよ!」

一触即発な雰囲気で2匹は睨み合う。

子供らしい必死さが逆に微笑ましく思えた。

「そう急がんでもいい。逃げたりはせんよ。順番に聞きなさい」

2匹の間に散る火花を遮るようにリフレクターを作る。

「じゃあ先に聞いていいよ」

「よっしゃ! オレから!」

うまく鎮火できたようだ。

さて、モノズからの話を聞こうか……ん?

何故かモノズはこちらに向かってきていた。

そのまま歩いてきて、こつんと私の脚に頭をぶつけた。

私を探していたのだろう。

しかし、私を探して何を——

「おりゃ!」

モノズは大きく口を開けて私に嚙みつこうとした。

テレポートを反射的に発動して回避すると、空を噛んだモノズの歯がカチリと鳴った。

あんな歯を受けていたらまず破れてしまうだろう。

モノズが何を気にしているのかはわかっていた。

だから私はテレポートで再びモノズに近づいた。

そして、着ている服の裾をモノズの頭に優しくかけてやった。

「これが気になるのか?」

「そうそう! ぶつかった時に思ったけど、それお前じゃねーだろ!」

「わたしも気になってた! それなんですか?」

オタチもぴょんぴょんと飛び跳ねながらこちらに近づいてくる。

「触ってごらん」

「わ、柔らかいけど葉っぱでもないし……なんだろう!」

「これは、『白衣』と言うんだ。ニンゲンは色々なものを身に纏って生活しているんだ」

「みに、まとって……?」

「君たちも夜寝るときに葉っぱを被って寝るんじゃないかい? 体が冷えないように。ニンゲンは寝るときじゃなくでもああいったことをするんだ」

「……へぇ〜!」

4匹は目を丸くしたり、口を開けていたり、驚きが見て取れた。

「あとは……そうだな。フォッコ、君が今尻尾に差している木の枝みたいな感じに色々なものを体につけるんだ」

「あ、これお姉ちゃんの真似してるんだ! ……え、あれ?」

「ん、どうしたんだい?」

さっきまでの楽しそうな顔とは打って変わって、フォッコは怪訝な瞳を私に向けた。

何かしてしまっただろうか?

「わたし、名前言うの忘れてたと思うんだけど……」

あぁ、名前を教えてもないのに私に名前を呼ばれたのが不思議だったわけか。

「ニンゲンの世界ではこの世にいる全てのポケモンの情報を集めたモノがあるんだ。だから私は君たちのことも知っているんだよ」

「なんだぁ、びっくりしたぁ」

フォッコはほっと安心したように息を吐いた。

「じゃあさ」

しばらくモノズを待っていたリオルが口を開く。

「待ってたんだったね、リオルはどうしたんだい」

「その、手についてるのも『ふく』なんですか?」

そう言われて、私は自分の左手の甲を4匹に掲げて見せた。

左手首にしっかり巻きついている、今はもう動かないそれを。

「これは、『時計』だよ。1日が始まってからどれくらい経ったのか、教えてくれるんだ」

テレポートで4匹に近づく。

「集まって、見てごらん」

ぞろぞろと4匹は私を囲った。

「この一番上が、1日の始まりと1日の半分を表すんだ。1日でこの短い針が2周するんだよ」

「じゃあ、今はどのくらいなの? もう終わりくらいだと思うけど。夕方だし」

腕時計は2時43分を差して、ぴくりとも動かない。

動かなくなってしまったのは、もうだいぶ前の話だ。

「いや、もうこれは動かないんだ。だから、分からないのさ。ニンゲンの元へ行けば直してはくれるだろうがね」

「じゃあ、なんでフーディンさんはニンゲンのところに行かないんですか?」

リオルの無垢な瞳が私を射抜いた。

一瞬背筋がこわばる。

失敗してしまった。

これではまるでニンゲンが危ないように見えてしまう。

「…………アビスとの、私と住んでいたニンゲンとの約束なんだ。ここに来たらもう戻ってくるな、ってね。理由は今でもわからない」

本当は知っている。

アビスは「逃げろ」と、そう言ったんだ。

その理由も、身をもって知っているとも。

「そっかぁ。じゃあもう直せないんだね」

オタチは自分のことでもないのに残念そうに呟いた。

「おい、なんの話だよ! オレにも教えろよ!」

モノズが私に吠えた。

そういえば時計を見せてもモノズには通じないんだった。話に取り残してしまったな。

「あぁ、すまないね。時計の見方は流石に教えてやれないが……代わりにいいものを触らせてやろう」

私は腕時計の巻きついている部分をモノズの頭に乗せた。

「オレ知ってるぞ! これは葉っぱだろ!?」

「あぁ、そうだ。葉っぱだよ」

そう、巻いている部分はプラスチックでも革でもない、草だ。

視覚がない分感覚が鋭いモノズにはすぐに分かったようだった。

「ニンゲンも葉っぱが好きなんだね!」

「いいや、元は違ったんだ。ニンゲンが作ったものを巻きつけていた。でも、ある日切れてしまったんだ。仕方なく私が草を編んでこれを作ったんだよ」

「そっかぁ、じゃあこれはフーディンさんの手作りなんだ」

「まぁ、そう言ってもいいのかな」

私が持っているニンゲンのものは、この白衣と腕時計だけ。

どちらも森に来てから一回とて手放したことはない。

さて、私の紹介も終わったし、なんの話をしようか。

なるべく興味を持ってくれること……。

左手を顎に当てて私が思案する。

「もっとニンゲンのモノないのか!?」

モノズが私の周りをぐるぐると回り始めた。

白衣と腕時計という未知のものに遭遇して気持ちが昂ったのだろう。

無邪気に飛び跳ねている様子を横目に話の内容を練っていると。

「…………がッ……!?」

「ん、今のなんだ!?」

右腕一帯に鋭い痛みが電流のように突き抜ける。

モノズが私の右手のスプーンに当たったのだ。

モノズはあまり気付く様子もなくそのまま走り回っている。

もう一周してまた右手の元にモノズが来る前に、テレポートで退避した。

モノズから離れ、私は右手の手首を押さえた。

ズキリ、と痛みが脈動する。

またしばらくすれば薄れてくるだろう。

右腕の先を押さえる力を強くして、じっと待つより他なかった。

「ちょっとモノズ、待って!」

「あ、さっきの硬いやつの話か!」

「違うよ! フーディンさん、なんか痛そう……」

「え、どうしたんだ!?」

4匹が離れた私の元へ駆け寄ってきた。

リオルが先導してくれたおかげでモノズも私にはぶつからなかった。

「あの、大丈夫ですか?」

「……あ、あぁ。大丈夫だ」

私の喉から出たのはかすれた声、到底大丈夫な声ではない。

不意に、きゃっ、とフォッコが短い悲鳴をあげた。

「その右手、どうしたんですか!?」

様子のおかしい私に近づいてきて、まず目に入るものは当然押さえている右手だ。

この、二股という異形の形をしたスプーンと一体化した塊のような右手。

あまり見られないようにしたかったのだが、致し方ない。

「……これはちょっとした事故でな。触られると痛いんだ」

濁すしかなかった。

私の声の重さに子供ながら何か感じ取るものがあってしまったのだろうか、4匹はしばらく黙りこくっていた。

沈黙を破ったのは、オタチ。

「それは……ニンゲンが……?」

「いや」

反射的に否の答えを返す。

「……私が進化するときに、ちゃんと進化できなかったみたいなんだ。野生のポケモンでもたまーにそういうポケモンがいるよ」

そう、私のこの手は進化上の不具合だ。

私の場合先天的というのか後天的というのかわからないが、とにかく私の行動ではどうしようもなかった。

「決して、ニンゲンは、悪くないんだ」

…………。

もっと気をつけるべきだった。

ニンゲンは怖いものだと教わっているなら、この右手を見ればニンゲンのせいだと思ってもおかしくない。

「そう、なんですね」

「やっぱりニンゲンは怖いのかと思ったけど、違うんですね」

オタチもリオルも頷いてくれた。

ひとまずはセーフだったようだ。

このままボロが出ないうちに、帰してしまおう。

「みんな、外を見てごらん」

左手で指差す方向は、まっすぐ洞穴の外の空。

もう既に真っ赤に燃え盛っていた。

「もうじき暗くなる。今日はもう帰りなさい」

「えぇ〜!? もっとお話聞きたいです!」

「そうだぜ! 話してくれよ!」

想定内だ。

今のところニンゲンの話に興味を持ってくれたこともわかった。

「またいつでも話してあげよう。今日は帰って、また暇なときにここに来なさい。待っているよ」

「わかりました! また来ます!」

リオルがさっと手を上げ、代表して言った。

迷惑をかけない優しい子だ。

一度そう言われてしまうと反論もしづらいのだろう、他の3匹も洞窟を出て行くリオルの背中に異論はないようだった。

洞穴から出たひなたで、4匹はこちらを向いた。

「「ありがとうございました!!」」

「また来るぜ!」

「また聞かせてください!」

みずみずしい元気をいっぱいに含んだ声だった。

「あぁ、またおいで」

私の返答を聞くと4匹は互いに話して笑いながら消えていった。

一歩も動かず、日陰から私は4匹を見送った。

第3話 居待月

4匹の影が見えなくなるまでじっと見送ってから、ふう、と息を吐く。

思った以上に疲れるものだな。

興味を持ってもらえるよう演じるのも疲れたが、力が有り余っている子供達についていくのは、この体には重労働だ。

だが、少しでもニンゲンへの抵抗のないポケモンを作るためなら手段を選んでいる場合じゃない。

覚悟を決めながら、私は右腕にくっついている黄色の肉塊と、それに刺さっている銀の双頭の蛇に目を落とした。

鈍い痛みを発し続けるその塊を、何度サイコカッターで自ら切り落とそうと思ったかわからない。

だが……だが、私は一度も実行しなかった。

怖かったのだ。

切り落とす時の痛みが、でも、切り落としたことでサイコパワーが使えなくなることが、でもない。

……この右手は、進化不全障害の一つだ。

遺伝的な問題や充分でない進化環境などが原因で起こる、体の一部が進化しきれずに残ってしまう障害。

私の場合は、その中でもかなり運が悪かった。

スプーンとスプーンを持っていた右手が融合して一体化してしまったのだ。

スプーンを持って握り込んだ右手がそのまま指ごと溶けてしまったような、そんな右手になってしまった。

ものを掬う部分が二つに分かれた奇形のスプーンになったのも、ユンゲラーからフーディンになる過程で2つになるはずだったスプーンが分かれきれなかったものだろう。

もちろんスプーンが埋め込まれた右手にもきちんと神経が通っていて、スプーンに刺激が加われば肉塊が内部からかき回されるような痛みに襲われる。

それでも、切り落とすことはできないのだ。絶対に。

決意はもう新たにするまでもなかったが、そんなことを考えていると少し右腕の痛みが引いてきた。

完全に引くまで待つには、寝るのが一番だ。

そうだ、寝てしまおう。

岩の台の上までテレポートして、横たわる。

岩の冷たさが私の体に侵入しようと攻め込んでくる。

その内体温で温まってくるまでの辛抱だ。

サイコキネシスを解くと、疲れでいつも以上に重い体の重量が直にのしかかってくる。

その重さに身を任せ、私の意識は沈んでいった。







空に投げ出されたような落下感とともに不意に意識が急浮上する。

夢を見ないで目が覚めたのは久しぶりだ。

外はもう太陽の炎の残滓が跡形なく拭い去られた暗闇。

そのまま続けて寝るには少し寝過ぎてしまったかもしれない。

まだ夜は長い。

明日も子供達が来ることを考えるとあまり夜に起きているのは得策ではないだろう。

「……そう、だな」

テレポートで起き上がり、体をサイコキネシスでキャッチする。

そうして私はのっそりと洞穴の外へ出た。

夜空の中空に、のっそりと浮かぶ半円が見えた。

あれは、上弦の月だっただろうか、それとも下弦?

確か、沈むときに真っ直ぐの側が上か下かで見分けがついたはずだ。

……下弦の月か。

これからどんどん欠けていって、ついには無くなってしまう月。

昔の自分はあまり好きではなかったが、今ではこの月になんとなく親しさを覚えるようになっていた。

サイコキネシスの出力を上げて、私は細い月へと向かって空を昇った。

下を見ると、目線のずっと上にあったはずの木のてっぺんすらも遥か真下。

いつもより少し高すぎたかもしれない。問題はないが。

こうやって空中を散歩するのはいつもと違った景色が見られて退屈しない。

散歩、か。

思い出すのはやはりあの時の思い出だった。

——おうちにいるの退屈でしょ?

夕方ごろになるとアビスはそう言ってよく私を連れ出した。

まだケーシィだった頃だ。

当時まだ多く物事を知らなかった私は、外に出るたびに知らないものを見かけるのがとにかく楽しかった。

空に浮かぶビリリダマのようにまんまるの物体を『満月』と呼ぶのだとアビスは教えてくれた。

その日は特別月が大きかった。

スーパームーン』、月がこの星にとても近づく現象が起こっていたと知るのはまた後の話だ。

煌々とした月明かりに照らされるといつもよりも夜の街がよく見えて、一層楽しかった。

満ちてから半月が経つと、月が跡形もなくなる。

それを『新月』と呼ぶことを知ったのは、この体になった後、散歩に行く代わりに本を読んでいるときのことだった。

夜の散歩が好きなのは何も月だけじゃない。

森の中は空気が綺麗だ。

木々が作った新鮮な酸素が体に染み渡るように感じる。

夜の涼しさで引き締まった空気が私は好きだ。

……ただ、綺麗とは言えないはずの街の夜の空気の方がずっと好きだった。

なにをするでもなくしばらく上空を漂って下の木々やら海やらを眺めながら、こうしてあれやこれやと取り留めもなく考える。

もう何回考えたかもわからないことを何度も何度も反芻して、寂しく、恋しくなって。

……また少し疲れてきた。寝ようか。

思考を中断してサイコキネシスの出力を弱めた。

緩やかに下降して、そのまま洞穴の中へ。

奥まで進んで、岩の上に横たわる。

冷たい岩が温まるのを待つよりも先に私の意識はそっと幕を閉じた。

それは眠ればほぼ確実に見る、夢の幕を開くための前振りだった。







暗い。

周り一面は少しの光も見逃さないようにとの暗闇で、私だけが影のできる隙間もないまでの光に全身囲まれていた。

うっすら見えるのは、ガラスの向こう側にいるアビスの白衣。

いつもの真っ赤なアメは舐めるのも忘れて棒部分を手に持っている。

その手は何への緊張か、痛そうなまでに握り締められていた。

周りにはやはりガラス越しに、白衣の男女が紙の挟まれたボードとペンを手に私を取り囲んでいた。

「それでは開始します。よろしいですか?」

ガラス越しにくぐもった声が聞こえてきた。

アビスを含め周りのニンゲンたちは各々頷いた。

「それでは」

真横にいる男が、私が入っている機械を操作し始めた。

チリっと頭頂部に違和感が弾ける。

小さな電流が当たっているような、痺れに近い感覚。

次の瞬間、全身の細胞が震えだした。

力が持て余すほどにみなぎっている。

ほのかに温かい力が私の体内を駆け巡り——

ドクン。

右手が脈打って強く痛んだ。

青空のような青い光に包まれていた視界が、鮮血のような凶暴な赤に染まる。

内側から肉をかき回されるような燃える痛みに右腕を強張らせながら、私はガラスの外側を見た。

手。

ガラスに押し当てられて柔く潰れた白い2つの手のひらだけがくっきりと見えた。

アビスは、大事なアメも落としてガラスに包まれた器具の外で震えていた。

右腕を灼く痛みが更に強くなる。

強い痛みに意識も手放してしまうのではないかと思った。

アビスの指が折り曲げられた。

私とアビスを隔てるガラスを引っ掻くように、無念の力がこもっていた。

アビスの目から何かがこぼれ落ちて、機械の光を受けてきらりと輝いた。

その滴が、頬を伝って、落ちて……。

第4話 臥待月

ハッと急に目が覚める。

洞穴のデコボコした天井が見えて、自分が夢を見ていたのだということに数秒遅れて気づく。

——いつもこうだ。

と、夢から覚めるたびに思う。

毎日毎日夢を見るのに、毎日毎日起きるまで夢だと気付かない。

それがもどかしくもあり、逆に1日の中で一番生き生きとした時間にも感じる。

右の肉塊から伝わる痛みの残滓が今日の夢の内容を伝えていた。

ああやってアビスは私のことでも自分のことのように泣いてくれる。

思い出して、心臓が少し温かく火照った。

それにしても、意識を手放してしまいそうなら自分が意識を手放しそうだなんて思うことは不可能だ。

謎の冷静さの時点で夢と気づいてもいいのに。

夢だと気付いてしまえば。

気づいて夢が明晰夢となれば、明晰夢の中ではどんな過去でも作り変えられるのに。

気付きそうで気付かないのがやはりもどかしい。

東の空は焦げて赤く染まっていた。

朝焼けだ。

朝焼けの後は雨が降る、なんて言うが実際のところは確かそんなに当てはまらないんじゃなかったか。……まぁなんでもいい。

朝食を採ってこよう。

テレキネシスで浮かび上がって、まだ寝ているように重い体が覚醒するのを待つ。

今度はサイコキネシスで前へ進んで、私は洞穴を出た。

今日1日分のきのみを取りに行くのだ。

採ってくる量は少ないから、木を探すのに時間がかかっても子供たちがくる頃には戻って来られるだろう。

私は森へと繰り出した。







がやがやと楽しそうな声が聞こえ始めた。

太陽がてっぺんに近づく頃。

私は瞑想を一時中断した。

瞑想と言ってもそんな高尚なものじゃない。思いつくままに思索にふけったり、何も考えずにいたり、とにかくじっとしていることを勝手に瞑想と呼んでいるだけ。

そして、今日からは一日中瞑想だけの日々ではなくなるのだった。

ニンゲンのことを知ってもらうためだ。なんだって構わない。

私は洞穴の外へ出た。

私が出てきたことに気がつくと4匹は走り始めた。

フーディンさーん!」

リオルが手を振った。

「今日も来たぜ!」

一番乗りしたモノズがぴったり私の目の前で止まる。

テレポートの準備はしておいたが杞憂だったみたいだ。

「おぉ、よく来たよく来た」

左手をモノズの頭にぽんと乗せる。

視界のないモノズは何かに触れていると安心するのだ。

もちろんこれは私の居場所を知らせて、右手にぶつかられないための自衛手段でもある。

「今日もお願いします!」

オタチが元気そうな笑顔を見せた。

「もちろん。さぁ、中へ来なさい」

子供たちを先導して、洞窟の中へと入った。

昨日と同じ定位置に着く。

「……なんの話をしようかな」

4匹の子供は今か今かと私の話を待っている。

子供か。

私がケーシィだった頃は、楽しかった。

この時の思い出なら話せるだろう。

「私がまだ進化する前、ケーシィだった頃の話をしようか」

「お願いしまーす!」

「アビスも私も、家——ニンゲンの世界での住処だね、その家の中にいることが多かったんだ。ニンゲンは家の中でも休まずにいろんなことをするんだ」

「ヘ〜、何するんだろ」

「私たちは帰ったらご飯食べて寝るだけだもんね」

「いろんなことをするから、太陽が登ってきてもあんまり家から出ることがないんだよ」

「外で遊ばないなんてつまんねーの」

「じゃあどうしたら住処から出るんですか?」

「アビスと私は、夕暮れや夜によく散歩をしたな」

「夜にですか?」

「オレらだったら夜に外なんか出ちゃいけないのに。いいなぁ」

「あぁ。何をするでもなくフラフラと歩くのは楽しかった」

「どこを散歩するの?」

「それはニンゲンの世界の中だよ。ニンゲンの世界はすごく広い。ニンゲンたちは街って呼んでいるんだ」

「まち?」

「そうさ。街にはニンゲンが住むところ以外にも色んな場所があってね。例えば、工場っていうのがある」

「コージョー?」

「工場っていうのは、ニンゲンが暮らしていくのに役立つ色んなものを作るところなんだ。この、私が着ている白衣も工場で作られたものさ」

「そんなところがあるんだ!」

「そのハクイ、オレも欲しい!」

「それは、ニンゲンの世界に行かないと無理だな。この白衣は実はニンゲンでもポケモンでもないものが作っているんだ」

「ニンゲンでもポケモンでもないの?」

「機械って言ってね。ニンゲンでもポケモンでもないのに、ニンゲンやポケモンがずっと動かしていなくても勝手に動いて作ってくれるんだ」

「「「「えぇー⁉︎」」」」

洞窟内に4匹の驚く声が響いた。

「なんだそれ‼︎」

「勝手になんてできるの⁉︎」

「機械もニンゲンが作ったモノだよ。ニンゲンの世界には、ここにはないようなニンゲンが作ったすごいものがたくさんあるんだ」

「じゃあ、きのみを自分で集めなくても代わりに集めてくれるキカイとかないかな?」

「あったらいいなぁ」

「私は知らないが、ニンゲンならば作ってしまうだろうな。ニンゲンは『科学』っていう不思議な力を操れるんだ。それを使ってどんなことだってやってみせるんだよ」

「カガク?」

「なんか、かっこいい!」

「名前もカッコいいけど、それだけじゃない。科学っていうのは、実はこのポケモンの世界の中にもあるものをもとにしているんだ」

「えぇ〜〜⁉︎」

「ここにもあるの⁉︎」

「あぁ。あるさ。フォッコ、尻尾に刺さっている木の枝を少し貸してくれるかい?」

こくりとフォッコが頷く。

サイコキネシスフォッコの尻尾から木の枝を抜き取る。

「ほら、今木の枝はサイコキネシスのおかげで宙にあるだろう? もしサイコキネシスをやめたらどうなる?」

「そりゃ、落ちるだろ」

モノズが答えてくれたので、サイコキネシスを解除する。

木の枝は地面に落下して、からんからんと音を立てた。

「そうだね。こうやって落ちるんだ」

「そんなの知ってるぞ!」

「これがカガクなんですか?」

木の枝を再びサイコキネシスで持ち上げ、回転で砂を落としてからフォッコの尻尾に差し直す。

「いいや。ニンゲンはこうしてモノが落ちる力だけでも色々な使い方をするんだ。そうだな、例えばニンゲンはポケモンみたいに自分で電気を作ることができない。でも、この落ちる力を使って電気を作ってしまうんだ」

「電気が作れるの⁉︎」

「私も10まんボルトしたい!」

「他にも、ニンゲンは自分では炎を作れないけど、火炎放射をする機械も作ることができる」

「電気も炎も作れるの‼︎」

「かっこいい〜〜!」

「ところでみんな。ニンゲンはこうやって色々なすごいことができるけど、やっぱりニンゲンにはできなくて、ポケモンだけができることもたくさんあるんだ。例えばニンゲンだけの科学では私のようにサイコキネシスやテレポートはできないんだよ」

「なーんだ」

「なんでもできるわけじゃないんだね」

「そうさ。ニンゲンにだってできないことはある。でも、ポケモンならそれができる。……じゃあ、ニンゲンとポケモンが合わさったら、なんでもできるじゃないか」

「なんでも……」

ポケモンとニンゲンが協力しあえばなんでもできる。ニンゲンたちはそう信じて、ポケモンたちと仲良く暮らしているんだ」

「ニンゲンの世界ではニンゲンとポケモンは仲がいいんですね」

「あぁ。ニンゲンの世界ではポケモンもまた、ニンゲンと一緒ならなんでもできるって信じているんだ」

「こことは違うんだね」

「そうだね。ここの森のポケモンたちはあんまりニンゲンのことが好きじゃない。でも、ニンゲンはポケモンと協力しようとしてるんだってことを君たちは覚えていておくれ」

「「「「はーい!」」」」

「よし、いい返事だね。じゃあそしたら私がやっていたことを紹介してあげよう」

フーディンさんがやってたこと?」

「私とアビスも、ポケモンとニンゲンの力を合わせてなんでもできるようにしようと頑張っていたんだ。ところでみんな、テレポートはできるかい?」

「ううんー」

「できないです」

「うん、リオルもフォッコモノズもオタチも、テレポートはできないね。でもできるようになりたいと思わないかい?」

「「したい!」」

「それをできるようにするのがアビスの夢だったんだ。ポケモンもニンゲンも、誰でもサイコパワーを操れるようにできないかなとがんばってたんだ」

「今ぼくにでもできるんですか!?」

「え……あぁ。できなくもない」

「ほんとですか! やりたいです!」

「……分かった。少し離れていなさい」

リオルの剣幕に、つい何も考えずに了承してしまった。

これまで礼儀正しくしていたリオルがいきなり食いついた理由はなんだろうか。

ルカリオに憧れて、波導のような特別な力を求めている……のかもしれない。

アビスと私の研究成果なら、リオルに一時的にサイコパワーを使わせることができる。

サイコパワーを他のニンゲンやポケモンに使えるようにするには、サイコパワーを相手に渡せるようにしなければならない。

サイコパワーを空間の一点に集めてから、それをでんじはを使って固めることで、サイコパワーの結晶を渡すことができるようになるのだ。

サイコパワーを一点に集めようとするのに力を込めなければいけないし、これを今やるにはその力を込めた状態ででんじはを打ち出さなければいけない。

これを全てやるには、今のこの体では体力的に厳しいものがある。

作り方は体が覚えているしできないわけではないだろうが、小さい結晶で何か簡単なサイコパワーを使わせるに留めた方がいいかもしれない。

……いや。これまでの話のおかげで科学に対する興味をかなり引くことができている。

ここは科学があれば実際にサイコパワーを使えるということを印象付けるべきだろう。頑張りどころだ。

何か、印象的なサイコパワーは……。

そうだ、じゃあテレポートで帰らせようか。

そうすれば私もすぐに休むことができる。

テレポートか、かなり大きな結晶が必要になるな。

少しの無理くらいしよう。

「よし。じゃあ、見ていてごらん」

左腕を前に突き出して、子供たちが囲む場所の中央に意識を集中させる。

少しずつサイコパワーが周囲に漂い始めた。

薄桃色にきらめく粒子が少しずつかざした左手の先に集まってくる。

もっと、力を込めて。

サイコパワーの塊が大きく成長していく。

「わぁ……」

フォッコが感嘆の声を漏らした。

もっと、圧縮。

サイコパワーの塊の色が徐々に濃くなっていく。

くすんだスプーンが目を刺すほどに濃い桃色の光線を跳ね返していた。

『いい調子。もう少しだけ、頑張れる?』

あぁ、いけるさ。

サイコパワーの流れに動かされてはたはたと白衣の裾が翻る。

鮮やかな桃色の塊の大きさはリオルの頭と同等の大きさに成長していた。

今だ。

かざした左手からでんじはを放出する。

微弱電流を浴びた桃色の塊は、ぴきん、と音を立てて固まった。

空中に浮かぶそれを、サイコキネシスでゆっくりと4匹の目の前に移動させる。

「リオル、持ってごらん」

リオルがサイコパワーの結晶をしっかり持ったのを確認して、私は力を抜いた。

荒い息を深呼吸で整える。

「どうだい。綺麗だろう?」

「……うん!」

「宝石みたい!」

「なんか硬いな! すげえ!」

結晶のきらめきを映す子供たちの目はいつも以上に輝いていた。

結晶は見えていないはずのモノズでさえ、わからないなりにパワーを感じ取ってか鼻先で結晶をつついている。

体力を消耗した甲斐はありそうだ。

「これを使えば、君たちが帰る場所までテレポートができるよ」

「えぇ〜!?」

「やったぁ!」

「すごいすごい‼︎」

子供たちは跳んではしゃいで、喜びを表現する。

そこまで喜んでもらえるなら、やった甲斐もあるものだ。

「これがアビスから教えてもらった、ポケモンだけでもニンゲンだけでも手に入れられない力だよ。今はニンゲンがここにいないから、一個作るだけでも疲れてしまうけど、ニンゲンがいたら君たちを毎回テレポートでここまで呼んでお話しすることもできたかもしれないね」

「いいなぁ!」

「ニンゲンさん来てくれないかなー」

「ここはニンゲンが来るには少し距離がありすぎるかもしれない。でも、君たちがニンゲンの住むところに行くことはできないわけじゃないよ」

「そうなの?」

「君たちが大きくなったときに、頑張って歩けばだよ」

「オレ、頑張って歩くぞ!」

「僕も!」

「あぁ。頑張ってくれ。……さぁ、テレポートを使ってごらん。みんなでこの結晶に触りながら、帰る場所を強く思い浮かべるんだ」

はーい! はーい はーい……。

4匹分の返事が洞窟の中を跳ね返り回った。

4匹がそれぞれ結晶に手を触れ、目を瞑る。

瞬きをする間に4匹はテレポートして、しゅぴんとわずかな音が鳴った。







「……帰ったか」

寝る際の定位置に移動もせず、その場に体を横たえる。

あんな量のサイコパワーを使うのは久々だった。全身が気怠くなるのも無理はない。

それにしても、久々にしてはよくあの大きさまで結晶を育てられたものだ。

それに、塊を維持しながらでんじはを放てたことも。

子供たちも驚いていたが、私自身が1番驚いている。

体が結晶の作り方を覚えていたというのは、素直に嬉しかった。

まだアビスとの思い出は消えていないのだから。

それに何より、あの時一瞬だけアビスの声が聞こえた気がした。

意識が作り出した幻聴でしかないのはもちろんわかっている。それでも、一瞬だけでも、あの頃に戻ったような気持ちになれた。

それだけで満足だった。

さぁ、明日はなにを話そうか。子供たちが喜びそうなことは————

————







「んんーーー……あ〜〜」

アビスが大きく伸びをした。

「っとと……よし、保存した。終わり」

先ほどまでカタカタと叩いていたキーボードを押し除けて、アビスはぐるりと椅子を回してこちらを見た。

「ケーシィ、おいで」

こちらに腕を開くアビスの元にふらふらとおぼつかない動きで向かう。

アビスの膝に私が乗ると、アビスはゆっくり腕を閉じて私を抱きしめた。

背中に触れる手先は少し冷たくて、でも全身が温かさに包まれた。

私を抱きしめたままアビスは立ち上がって、窓際に歩いて行った。

「あーもうこんな暗くなっちゃったか」

空はもう鮮やかなまでに濃い藍色で染まってしまっていたし、向かいの家もこうこうと電灯の光を放っていた。

「んー、まあいっか。ケーシィもつまんなかったもんね。一緒に散歩いこ!」

散歩。

散歩はとても楽しい。家の外にはいろいろなものがあるのだ。それにアビスは散歩をしながらいろんなことを話してくれる。

私はアビスの腕から抜け出して、アビスの膝の辺りの高さに並んで浮いた。

アビスが左手を伸ばして、私はその手に重ねるように右手を差し出した。

散歩をする時の定位置だ。

きゅっと手が掴まれて、私たちは歩き出した。

ゆっくりと住宅街の景色が後ろに流れていく。

「ん〜、夜になるとさすがに涼しいなぁ」

深く深呼吸するアビスの右を大きなトラックが横切って行った。

車道側に立つアビスに当たってしまわないか心配になった。

「んー? どしたの。お空見る?」

私が空を見ていたと勘違いしたアビスは、少しかがんで私を抱き上げた。

「たかいたかーい」

天まで一気に抱え上げられる。

人工の光に照らされる黒い空が目の前に広がった。

「一番星は……って明かりで見えないか」

突如、目の前で何かが空を切った。

思わず顔の前で腕をバタつかせる。

ぶーん、と音を立てるそいつは私より上のライトへと向かって行った。

「びっくりした! アブリーかぁ」

今度はゆっくりと、私を下ろした。

「びっくりしたね。よしよし」

3回頭を優しくなでて、また右手をとって、歩き始めた。

「虫タイプは光に集まるポケモンもいるんだよ。お月様と勘違いしちゃうんだ」

確か、走光性と言ったはずだ。

「こんなに明るいと星は見えないけど、月はそれでもよく見えるね」

見上げた空には、端っこにいくつもの人工の月が連なっていた。

月の列から外れて空の真ん中に、一際大きな丸が浮かんでいる。

「満月だもんね。……人工灯より月の方が、ずっと明るい」

呟くアビスの表情は、下からでは見えなかった。

もう一度空を見上げる。

何もない。

塗り潰したような真っ黒。漆黒。

……アビスは。

アビスは?

アビスが。

アビスを。

アビスは————

第5話 更待月

ぱちりと目が開いた。

薄暗闇の中で一瞬状況が理解できなかった。

起きたのか。

……夢だったんだな。

焦る気持ちがまだ胸に残って、心臓を強く殴りつけていた。

少し、少しだけ、楽しい気持ちがあったはずなのに。

どうして楽しかったのか、忘れてしまった。

私はどんな夢を見たのだろう。

もやもやとした気持ちを抱えながら、起き上がる。

起き上がってから、いつも寝ている岩の台の上ではないことに気づく。

そうだ、昨日は子供たちを帰してからその場で寝てしまったのだった。

もっとも、ニンゲン界のようにベッドがあるわけでもない。どこで寝ても変わらないのだが。

サイコパワーで体を上下に引っ張って、強く伸びをする。

外を見ると、空の藍色が薄れ始めていた。

まだ夜明けすら遠い。

あの子供たちには暇な時に来なさいと言ってあるが、多分今日も昼下がりに来るのだろう。

昼までなんて、気が遠くなりそうなほど長い。

……明るくなるまで瞑想をして、それからきのみを取りに行こうか。

それでいい。ボーッとしていよう。







遠くでかすかにガヤガヤと声が聞こえた。

子供たちが来たようだ。

洞窟の入り口へ出迎えると、4匹はすぐさま駆け寄ってきた。

私の前に並んで、らんらんと輝く瞳を私に向ける。

「今日はなんの話をするんですか?」

「今日は『本』の話をしてあげよう」

洞窟の中に入りながら、用意しておいた話題を口にする。

「ホン?」

「前に、『ニンゲンの世界ではこの世にいる全てのポケモンの情報を集めたモノがある』と私が言ったのを覚えているかい?」

「はい! ニンゲンはすごいなって思いました!」

「その集めたモノは、『図鑑』って呼ぶんだ。最初の『図鑑』は『本』だったんだよ」

「ズカン……」

「へぇ〜……」

「結局本ってなんなんだ?」

「図鑑みたいに色々なことを教えてくれるモノさ。色々……例えば、ポケモンと仲良くなるにはニンゲンはどうしたらいいんだろう、とかね」

「んん〜……あんまり面白くなさそう」

「そんなことないさ。ところで、君たちはミュウのお話を聞いたことがあるかな?」

「わたし知ってる! この世界のどこかに穴があって、ニンゲンがいない世界に繋がってるんだよね! それで、えっと、ピカチュウと、チコリータと、ポッチャマと、ヒトカゲが穴に落ちちゃって、その世界でいろんなポケモンと戦って、」

「最後にミュウとバトルして仲良くなるんだよな!」

「あー! 私が言いたかったのにー!」

「なんだよ、別にいいじゃんか!」

「よくない!」

「まぁまぁ。とにかく、そう、その話さ。よくお父さんやお母さんが話してくれたろう?」

「おかあ、さん」

ニンフィアさんが教えてくれたぜ!」

……あぁ、そうだった。

この世界にはニンゲンが自分勝手にも逃した結果、頼る場所もなく彷徨っているポケモンが多くいる。

ニンフィアは確か、そんなポケモン達を集めてこの森で暮らしているのだったか。ニンゲン世界で言うなら、孤児院だ。

なんにせよ子供にとって親がいないと言うのは多かれ少なかれ辛いものだ。親についての話は控えた方がいいな。

「ニンゲンたちの間にも同じようにいろいろなお話があるんだ。本にはそのお話が書いてあることもあるのさ」

「それなら楽しそうだね!」

「どんな本があるんですか?」

「じゃあ、私が最初に読んだ本の話を教えてあげよう」







——あそべるえほん「しまめぐりにいきたい3びき」

『島巡りってなんですか?』

『島巡りは、ここからもここのニンゲンたちの街からも遠く離れた場所で行われる儀式さ。……そう、ちょうどロコンが進化をするために石を探すようなものだね』

——ピカチュウナマコブシヤドンの3びきはしまめぐりのためあれこれじゅんびをはじめました。

——「ねえねえ! なにがあればいいかな?」

——「おべんとうだよ!」

——ピカチュウはいちにちかけてみんなのおべんとうをつくりました。

——サンドイッチにクッキーそれにきのみもたくさん! あとはバスケットにつめるだけ!

『さんどいっち?』

『サンドイッチもクッキーも、ニンゲンが作った食べ物だ』

『ニンゲンはきのみとかを作るの⁉︎』

『いや、違う。きのみなんかを材料に、もっと食べやすく、もっと美味しく食べられるように作り変えるんだ』

『ふーん……?』

『例えばナナシのみは硬いからあまり食べるポケモンはいないだろう? そのナナシのみをニンゲンは温めたりして食べやすくして食べるんだ』

『わたし、ナナシのみ苦手』

フォッコはあれ食べるの?』

『焼くと美味しいんだって。パパが好きなんだ』

『ヘ〜』

『じゃあ、もう一度話そうか』

——ピカチュウはいちにちかけてみんなのおべんとうをつくりました。

——サンドイッチにクッキーそれにきのみもたくさん! あとはバスケットにつめるだけ!

——バスケットをみつけたピカチュウがおべんとうをつめようとおもってキッチンにもどると……

——あれっ!? おべんとうがない!

『えぇ〜⁉︎』

『どうしたの⁉︎』

『こういうときは他のポケモンに聞いてみるのがいいんじゃないかい?』

『そうだな!』

『でも誰に聞くの?』

ピカチュウちゃんの周りにはナマコブシちゃんとヤドンくんがいるみたいだよ。みんなどうする?』

ナマコブシちゃんは知らなそうじゃない?』

ヤドンくんの方が知らなそうだよ』

ナマコブシちゃんは食べなさそうだろ』

『じゃあヤドンくんかな?』

ヤドンくんに聞くかい?』

『いいよ!』

『じゃあ、続きだ』

——「ねえヤドンはごちそうがどこへいったのかしらない?」

——「しってる! すっごくおいしかったよ! オイラのシッポくらいうまかった!」

——「ほめてくれてうれしいよ! でもしまめぐりのおべんとうまたはじめからつくらなきゃ」

——ピカチュウはやれやれとちいさなためいきをつきました。

——あーあ……3ひきはきょうはしまめぐりにしゅっぱつできませんでした

——またべつのひにでなおそう! おしまい☆







子供たちは終始目をキラキラと輝かせながら話を聞いていた。

覚えようとして覚えたわけじゃないが、覚えていた甲斐があったものだ。

「面白かったね!」

「あぁ。ニンゲンの作る本はどれも面白い」

「わたし、本を見てみたい!」

「ニンゲンのもとにいれば見る機会もあるだろう」

もっとも、この子たちが文字を読めるようになるかはわからんが。

私とて今またニンゲンの文章を読めるかと言われたらわからない。

「ニンゲンかぁ〜」

リオルが感心するような声を漏らした。

興味を引けたような、いい手応えだ。

「じゃあ、もう一つ話してあげようか。聞くかい?」

「聞きたい!」

「聞きたいです!」

「じゃあ、次は「デネとデン」っていう本にしようか。それじゃあ……」







頭に入っているいくつかの本を読み上げているうちに、青空が茜色に浸食され始めた。

「また、いっしょにあそぼうねー! ……おしまい」

「面白かった!」

「カチャのみのお話なんて初めて!」

「ニンゲンはポケモンには思いつかないことも色々考えたりするんだ」

「ニンゲンってすごいね!」

絵本の話は一つ一つが4匹にとてもウケた。さすがは児童絵本だ。

「……さて。そろそろ帰らなきゃいけないんじゃかい?」

「……あ」

「むー、早いなぁ」

「またおいで。待ってるよ」

「はーい」

楽しかったね、と笑いながら、4匹はぞろぞろと洞窟を出ていった。







4匹を見送ってから、私は最初に4匹に読み聞かせたあの絵本のことを思い出していた。

——「しまめぐりに いきたい3ひき」

——ピカチュウナマコブシヤドンの3びきはしまめぐりのためあれこれじゅんびをはじめました。

——「ねえねえ! なにがあればいいかな?」

——「おべんとうだよ!」

いや。この絵本の物語の最初の選択肢はここだ。子供たちには見せなかった、別の選択肢が存在する。

——なにをよういしようかな?

「……おこづかい」

ポケモン界にはない、お金という概念だ。

——3ひきはちょきんばこをもちよってたびのおこづかいをよういしました。

——「トントン」

——「あっおきゃくさんだよ!」

——だれがげんかんにいく?

「……ピカチュウ

——ピカチュウがげんかんからもどってきました。

——ヤドンがたずねました。

——「おきゃくさんはだれだったの?」

——もじもじしながらピカチュウはこたえました。

——「セールスマンだったんだけど、ご、ごめん、ボク……おこづかいをつかっちゃった!」

——「これがさいごのピカチュウZですっていわれて……ボクいっつもデンキZだからどうしてもほしかったの」

——「ぜいたくなやつだなあ」

——おこづかいがなくなってしまった3ひきはしかたがないのでしまめぐりよりさきにアルバイトをいくそうだんをするはめになってしまいました。

——あーあ……3びきはきょうもしまめぐりにしゅっぱつできませんでした。

——またべつのひにでなおそう!  おしまい☆

この選択肢が。ニンゲンがそそのかしたこの展開が、あの物語の中で1番悪い選択だった。

こんな話をするわけにはいかなかったから、1個目の選択肢は「おべんとう」で押し通したのだ。

悪いニンゲンは確かにいる。でもニンゲンの文化はそれで否定されるべきものではない。

……選択肢を少し戻す。

——だれがげんかんにいく?

「……ナマコブシ

——ナマコブシはドアをあけました。

——「はあいどなた?」

——「キミたちがしまめぐりにいくときいてアドバイスしにきたぜ!」

——そこにいたのはデリバードでした。

——ナマコブシはよろこびました。

——「デリバードせんぱいぜひアドバイスおねがいします!」

——「オーケー! アドバイスりょうはたったの200えんだぜ!」

——デリバードせんぱいに200えんはらう?

「……はらう」

——ナマコブシは200えんはらいました。

——「ではアドバイスだ! 200えんあればキズぐすりがかえるぞ! たくさんかっておけよ。たびにはきけんがつきものだ」

——デリバードナマコブシになんとキズぐすりを3こもくれました。

——「アドバイスをきいてくれたからせんべつのプレゼントだぜ!」

——ナマコブシはとってもよろこびました。

——どうぐをたくさんもって3ひきはじゅんびばんたん。いよいよしまめぐりにしゅっぱつします。

——たびのよういはだいせいこう!

——キミがしまめぐりをしてるとき、もしかしたらこんなゆかいな3びきにであうことがあるかもね!  おしまい☆







こうして、唯一準備に成功できる選択肢も、おこづかいの選択肢のうちに入っている。

ポケモンしか登場しないこの絵本の世界にも、ニンゲンの文化が混ざってはじめてうまくいく……のではないか。

この絵本はもしかするとそんなことを言いたかったのだろうか。

……だが、結局ニンゲンではなくポケモンが助けているのは違いない。

ニンゲンが悪いようにも見えてしまう。

…………。

思考を一旦止めて、私は岩の台まで移動した。

台の上に体を寝かせ、サイコキネシスから解放する。

疲れた体を横たえると、疲労が地面に溶け出していくような気がする。あの頃からそう思っていた。

疲労ともにあの思考が溶け出していくのを止めずに、私は目を閉じた。







「しぃ! しぃ〜〜!」

研究室の中に泣き声が響いた。

複数の視線が研究室入り口に置かれたケージを捉える。

研究所では安全性の観点から、不用意にポケモンを持ち込めないようにモンスターボールの携帯が許されていない。

だからこんな風にポケモンはケージなどに入れられている。

「あっ……!」

ケーシィの泣く声をきいて、部屋の左端にいた女が弾かれたように振り向いた。

漆黒の長髪が跳ねるのも気にせずに、すぐに自分の手元に目線を移す。

「ちょっとこれ混ぜといて!」

隣の男に乳鉢を無理やり渡し、手についた深紅の粉を洗い落として、女はケージに駆け寄った。

女は慌てた手つきでガチャガチャと鍵を開ける。

「どうしたの〜ケーシィ? よしよし〜」

ケージの中からケーシィを取り出して抱きかかえるも、ケーシィが泣きやむ様子はなかった。

「よしよし、お腹減ったのかな?」

ケージの横に置かれたベージュの鞄からモモンのみを取り出し、ケーシィの口元に近づける。

しかし、ケーシィはふいとそっぽを向いてまた泣き出すだけだった。

「……めんどくさいなぁ」

ポツリと言葉が漏れて、女の顔が少し歪む。

ケーシィの目の前で置き去りにされたモモンのみを鞄に戻し、今度はポケモン用の哺乳瓶を取り出した。

「おみず! 喉渇いたでしょ?」

ケーシィの口元に哺乳口を近づける。

泣き声が止んだ。

ケーシィはスンスンと匂いを嗅いだあと、哺乳瓶に手を伸ばして哺乳口を咥えた。

「よしよし〜」

女はゆらゆらと体を揺らしてケーシィのご機嫌を取った。

しばらく水を飲んだあと、ケーシィは哺乳口から口を離してまた眠り始めた。

哺乳瓶を鞄に、ケーシィをカゴに戻して、手荒にケーシィのカゴに鍵をかける。

「もう、実験のためとはいえ……」

女はやれやれとばかり首を振る。

白衣の胸ポケットからタバコを一本出して、研究室の外へ出ていった。

白く無機質な廊下にかつかつと靴の音が響く。

右手を白衣のポケットに突っ込んで、左手は巻かれ方が少し荒い、手巻きタバコを握りしめ、足早に廊下を駆け抜ける。

ちらりと女の目線が捉えたのは、喫煙所の文字。

再び視線を前に戻して、女は喫煙所の横を足早に通り過ぎた。

研究所の狭い裏口を出て、建物の裏側を訪れる。

きょろきょろと2度3度、ひと気がないのを確認して、女は建物の壁に背中を預けた。

左手に持っていたタバコを咥え、白衣のポケットからライターを取り出す。

かちりとライターが鳴ると炎が灯って、女の左手が赤く照らされた。

橙の光がタバコの先にも灯った。

チリチリと粉が燃える音がして、タバコの先から真っ赤な煙が立ち上った。

左手で咥えたタバコを押さえたまま深く深く息を吸う。

人差し指と中指で挟んで、真紅の煙を吐き続けるタバコから口を離す。

続いて、かえんほうしゃのように凶暴にきらめく赤い息を吐き出した。

何度も何度も、かえんほうしゃを放ち続ける。

しばらくして、白衣からポケット灰皿を取り出した。

タバコの先を押し付けると火種は消え、真っ赤な煙も立ち昇らなくなる。

タバコを灰皿の中にしまって、辺りに立ち込める赤い煙を白衣でなぎ払ってから、女はその場を立ち去った。

先ほどにも増して速い、競歩のようなスピードで廊下を歩いていく。

あっという間に研究室まで戻ってきて、ドアノブに手をかける。

「にしてもアイツなんであんなんなんだろうな……」

「冷てーしな」

「俺らより上だからって見下してるよな」

「顔はいいのにな」

「自分のことしか考えてなさそう」

「ほんとな。あのケーシィもどうなっちゃうんだか」

チッ。

舌打ちが一つ廊下に響いた。

女は白衣を翻して廊下をまた戻った。

(……お前らが言えたことじゃないだろ)

どこからか声が聞こえてくる。

女の右手は固く固く結ばれていた。 

女はもう一度外に出て、胸ポケットからまた一本タバコを取り出した。

火をつけると、タバコはまた女の怒りを表したような赤い煙を吐き出し始める。

煙が辺り一帯を赤く乱暴にきらめかせた。

第6話 下弦の月

ふいと目が覚めた。

赤い煙はそこにはなく、なんら変哲のない洞窟の天井だった。

脳裏にはまだ、あの暴力的な赤い煙がこびりついていた。

ちょうどあの煙を吸ってしまった時のように、しつこい不快感が離れない。

……あぁ、思い出すだけでまた少し腹が立ってきた。

苛立ちを忘れるには、散歩にでも出ようか。

……そうだな。せっかくだし少し遠くに出ようか。

森の中心部まで、テレポートで。

天井を眺めるのをやめて、私はテレキネシスで起き上がった。

行き先は森の中央部の空。

目を閉じて、テレポートを発動した。

しゅぴんと聴きなれた音と共に、眼下に暗い緑色の木々が広がった。

私の住処周辺とは違って、木々もよく育っているらしかった。

目の前には同じく暗い朝焼け前の空。東の空の端に茜が混ざり始めていても、まだ暗いものは暗い。

そして、吹き付ける上空の風はやはり強く冷たかった。

少し高度を下げて、風除けのリフレクターを展開する。

寒さが幾分か和らぐ。

体の緊張が解けた。

アビスとはこんな早朝の時期に散歩することはまずなかった。

夕暮れ時の散歩は、もっと暖かかったのに。

取り止めもない思考を垂れ流しながら、しばらく意味もなく空中をうろついた。

太陽が空に顔を出してじりじりとその全貌を現していく様子をひたすら眺めていた。

ふとなんの気なしに下界を見る。

雑然と立ち並ぶ木々の中に、ぽっかりと真円が空いて地面が見えている場所があった。

確かあの広場は子供たちがよく遊んでいたはずだ。

じっと眺めていると、木々の下から小さなポケモンたちが点々と姿を現し始めた。

子供たちも起きてくる時間だ。

下界の点の動きをぼんやりと目で追う。

唐突に。

私の目と下界との間に、エメラルドグリーンの塊が発生した。

翡翠の鏃が朝日を受けてギラギラと鋭さを主張している。

気がつけば、周囲全てを同じ矢に取り囲まれていた。

サイコパワーの矢だ。

そう思ったのと同時に、しゅぴんと聞き慣れた音がした。

もちろん私は森よりはるか上空にいる。

にもかかわらずまるで両者が地面にいるのと同じような位置関係で出現したのは、サーナイト

和解する気など最初からないと言いたげな険しい表情をしていた。

『なにをしているのですか』

聞こえてきたのは、テレパシーだった。

それに対して私は肉声を投げかける。

「あなたこそ突然危なそうな矢なんて向けて、」

目の前の矢を一本、サイコキネシスでぺきりと折った。

「一体いかがいたしましたか」

サーナイトの顔に一瞬動揺が走ったのを私は見逃さなかった。

『……上空にじっと子供達の見つめる影があったので』

なるほど、親か。

……普通の親にしては少し警戒心が強すぎる気もするが。

「私はフーディン。通りすがりですよ」

『通りすがりにしては、あまり見かけない顔ではないですか?』

「ここよりもずっと北……森のあちらの端に住んでいるもので。ここには気まぐれで散歩に来ただけですから」

『わざわざ空中で、ですか』

「あまり他のポケモンには見られたくないものですから」

言いながら、右の肉塊をそっと目の前に持ってくる。

サーナイトはしばらく黙ったままその肉塊を見つめていた。

私を取り囲んでいたエメラルドグリーンの凶器が一斉に消え去る。

『……そうですか。あまりここにいると、他のポケモンにもこうして攻撃されます。特に、ガブリアスさんなんかは私より気性も荒いですから。なるべく早く、ここを去った方がいいでしょう』

「えぇ。そうさせていただきます。ご助言感謝いたします」

疑惑の目を向けたまま、サーナイトはテレポートしていった。

サーナイトに、ガブリアス……。

何か頭に引っかかるものがあったが、思い出せるほど詳細なイメージは湧いてこなかった。

とりあえずは助言の通りに立ち去ることにしようか。

せっかく来たが、この辺りのきのみを拾うのはやめだ。

そう結論をまとめて、私はテレポートを発動した。







あのサーナイトが一体何者なのか。

全く思い出せないが、勘が何かを知らせようとしている気がした。

瞑想していても結局思い出せないまま子供たちがきてしまった。

目の前には4匹がニコニコして並んでいる。

「さぁ、なにを話そうかな」

今日は私の科学の実験についてでも話してやろうか。

はいはーい、とフォッコが前に出る。

「あびすさんはどんな人なんですか?」

「ん、アビスのことが聞きたいのか」

「はい! どんなニンゲンなのか気になります!」

アビスについてか……。

話せることはたくさんあるが、子供たちに伝えるとなると慎重に選ばなければなるまい。

実験の話はまた明日にでもしよう。

「わかった。なら……そうだな、まずは白衣の話をもっとしてあげよう」

「ハクイ!」

「その白いのだよね」

「あぁ。この白衣が『服』だっていうのは覚えているね?」

「覚えてます!」

「いいぞフォッコ。ニンゲンはみんな服を身につけて生活するんだけど、その中でもこの白衣は特別なものなんだ」

「特別?」

「白衣は『研究』をする時だけに身につけるものなんだ。『研究』っていうのは、前に教えてあげた『科学』について知ろうとすることで、すごく難しいんだよ」

「ケンキュー……」

「ケンキューをすると、キカイってやつが作れるのか?」

「よく覚えていたねモノズ。他のみんな、機械のことを話したのは覚えてるかな?」

「はいはーい! いろいろなことを代わりにやってくれるんですよね!」

「そうさ。機械を作るにも研究は必要だし、他にも研究するといろいろなことができるようになるんだ」

「どんなことができるの?」

「そうだな、例えばポケモンが食べるだけで強くなってしまうような食べ物を作ることができるよ」

「食べるだけでいいの⁉︎」

「あぁ。『薬』って言うんだけどね。他にも体の調子が悪いのをすぐに治してしまうものなんかもあって、それらを作るには研究が必要なんだ」

「ケンキューってすごいな!」

「そうさ。アビスもそんな研究をする人だったんだ。もちろん私も手伝っていた」

フーディンさんすげー!」

「この白衣はアビスが研究をするときにずっと着ていたものでね。すごく大事にしていたんだ。だから、今も私が着ているんだよ」

「大事にしてたのに、どうしてフーディンさんにあげちゃったの?」

「……それは」

言うかどうか、ためらいが生じた。

言うにしてもどう説明したものか。

4匹は彫像のように固まって私の言葉を待っていた。

「……それはね。死んでしまったんだ」

「えぇーー!?」

「どうして死んじゃったんだ?」

「それは……わ、わからない。わからないが、とにかくアビスとはもう会うことはできないんだ」

「そうなんだ……」

フォッコががくりと視線を落とす。

フォッコの頭をぽんぽんと撫でながら言葉を紡いだ。

「でもね。お別れの直前まで、アビスは私のことを心配していてくれたんだ。すごく、すごく優しい人だった」

「ヒト?」

「……あぁ。君たちも……特にモノズ

「オレ?」

モノズがきょとんと首を傾げる。

モノズ一族はニンゲンよりもずっと長生きするんだ。多分ニンゲンの方が早く死んでしまう。だから、もしもいいニンゲンと出会ったら、必ず大事にするんだよ。いいね?」

「まかせろ! 絶対なかよくするぜ!」

子供だからこその勢いのある言葉だった。

モノズはその場でぴょんぴょんと跳ねてやる気をアピールする。

「他のみんなもね。ニンゲンたちは私たちポケモンよりも体が弱い。いつお別れになってしまうかわからないから」

「「「はーい!」」」

フーディンさん!」

「ん、どうしたんだいフォッコ

聞きたくてうずうずしていた、という声音でフォッコは私を見る。

「その白衣についてるキラキラしたものはなんですか?」

「あぁ、これかい」

視線を落とすと、白衣の袖や裾についた赤い粉が光を反射して輝いていた。

「これは、研究をしているときについた汚れだね。それよりみんな。今日はたくさん言葉が出てきたけれど、何か気になることはあったかい?」

「ケンキュー!」

「もっとケンキューの話聞きたいです!」

「わかった、じゃあいろんな研究の話をしてあげよう」

…………







「そう、だから私たちがやっていたのは——」

「あっ!」

突然リオルが叫んだ。

「どうしたんだい?」

「今日はニンフィアさんから早く帰って来なさいって言われてて……」

「「あ!」」

「そうだった!」

リオル以外の3匹も思い出したようだった。

「そうか、なら帰らないといけないな」

「うー、もっと話聞きたい!」

「大丈夫、また明日にでも話してあげよう」

「はーい……」

4匹はとぼとぼと洞窟を去っていった。

洞窟の中が一気に静かになる。

ニンフィアさんから早く帰って来なさいって言われてて……』

リオルの言葉を思い出す。

ニンフィアが早く帰れと言わなければいけない理由。

ニンゲンのように、今日をなにかしらで祝ったりするために帰るわけでもないだろう。

一つ、思い当たることがあった。

今朝の一件だ。

あの時いきなり攻撃じみたことを仕掛けて来たサーナイト

サーナイトニンフィアと同じく孤児院のメンバーであれば。

恐らく下で遊んでいたポケモンたちは孤児院にいる子たちなのだろう。

子供たちを守るなら上空までをわざわざ警戒するする理由にもなる。

警戒心が強すぎる理由は、孤児というかわいそうな境遇のポケモンをたくさん見てきたから。

全てに納得がいく。

確証が持てるわけではないが、その可能性は少なくないだろう。

サーナイトも、この森の中ではニンゲンのことを知っている方だ。

私の手を見てニンゲンと関わったことがあると考えてもおかしくない。

本来であればあんな不自然な進化はしないのだから。

今後私について警戒が強まるかもしれない。

何か、嫌な予感がした。

ぞわりと背中から、運命が這い寄って来た気がした。

……未来を、視てしまおうか。

未来を視ることは、確かにできる。

実際に未来を視るのと同じ要領で何度も過去を見たから視られないわけではないのだ。

できるが、今までそれをしようと思ったことはなかった。

未来というものは、変えられないもの。

過去も未来も、変えられないから視られるのだ。

だから、もしその未来が悲惨なものだとしても、私には待ち受けている未来を受け入れる以外の選択肢はない。

絶望する時間を少しでも減らしたい。

絶望するのは、もう懲り懲りだ。

だから私は未来を視たことは一度もない。

……今回も、やめておこう。

結局なにもしないまま、この件の蓋を閉じて私は瞑想の時間に入った。








暗い部屋のなかで、電気スタンドだけが机を強く照らしていた。

机に向かっている女が引き出しを開けた。

取り出したのは、小さな薄い紙の入った箱と大きな薬瓶と薬さじ。

それらを目の前に置いて、机の端に置かれていた小さな箱を手にとった。

「cigarette machine」と書かれたその箱を細い指が開ける。

箱の中には小さな白い円筒が入っていた。

続いて女は薬瓶を取って、薬さじを中に突っ込む。

大きなさじいっぱいに深紅にきらめく粉を取り出した。

それを箱の蓋側についたくぼみに流し込み、その横に白の円筒をつまんで置いた。

女が次に手にとったのは先ほど取り出した小さな紙。

紙を手で押し広げ、口元に持っていく。

口元からちょこんと出た薄紅の舌が、紙の端をつーっと舐める。

舐めた紙を、粉と白い円筒と共に箱の裏にセットした。

ぺたんと箱を閉じると、箱の手前の窪みから細い円筒が現れた。

円筒の一端をきゅっとひねって机の横に置いた。

一連の作業を女は何度も何度も繰り返す。

筒が30本になろうかというとき、女は作業の手を止めた。

机に並べられた筒を一つ手にとって、人差し指と中指で挟んだ。

筒の一端を咥え、机に転がっていたライターでもう一端に火をつける。

じりじりと捻られた紙が焼けて、じきに荒々しく真っ赤な煙を立ち登らせた。

自分で巻いたタバコを咥えたまま、女は深く深呼吸した。

女の瞳がゆっくり開く。

その目は何も映していなかった。

「しぃ!」

ケーシィが女の両肩に捕まった。

女はゆっくりと首を振るだけだった。

「しぃ? けー」

ケーシィは何度か女の肩を揺らした。

やはり、女の反応は薄い。

「けしぃ!」

ケーシィは女の後頭部を登って、頭の上に乗った。

女の顔を上から覗き込もうとして——ケーシィは赤い煙を吸い込んだ。

「しぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

突如ケーシィは女の頭を殴って暴れ出す。

髪を引っ張られた痛みに女が我に返った。

「ケーシィ⁉︎ どうしたの? ケーシィ!!」

頭の上のケーシィを抱き上げて目の前に移動させる。

両脇を掴まれたケーシィはなおもジタバタと駄々をこねるように女の手を殴りつけていた。

女は冷静さを取り戻した鋭い眼差しを暴れるケーシィの鼻先に向けた。

鼻先についた赤い粉を見て、女はぶつぶつと何かを呟いた。

両手で抱えたケーシィには目もくれない。

気づけば女の目の前には大量の透明なアメ玉が散らばっていた。

アメの包装を一つずつ解いては目の前の小鍋の中に放り込む。

からん、からん、と虚しい音が幾度も響いた。

透明な粒が小鍋の底を埋め尽くすと、女は小鍋を持ってキッチンへ向かった。

小鍋をガスコンロに置いて、火を灯す。

女はじっと鍋の中を見つめていた。

鍋の中のアメは次第にその輪郭を失っていく。

アメが全てドロドロに溶け合ってしまったのを見て、女はキッチンを離れた。

戻ってきた女の手には薬瓶と薬さじが握られていた。

薬瓶を開け、薬さじ山盛りに取った赤い粉を煮えたぎるアメの中に落とした。

何度も何度も、薬瓶に薬さじを突っ込んでは粉の山を鍋に振りかける。

手を動かす女の横顔は眉一つ動かない。

やがて透明だった液は真っ赤に染まり、ギラギラと暴力的な輝きを放ち始めた。

「……よし」

コンロから鍋をとりあげる。

血のように赤い液体を、同じく赤いシリコンの型に流し込む。

赤く丸い塊が型の中にいくつも作られ、いくつも持ち手の棒が突き立てられる。

型を慎重に冷蔵庫の中に置いて、扉を閉める。

「……これでいいかな」

女は左手の指についた赤い粉を舐めとった。

もう片方の指先は小刻みに震えていた。

第7話 暁月

翌日はすぐにやってきた。

昨日の瞑想中も、今日起きてからも、ずっと子供たちへの話を練っていた。

もうあと何回リオルたちに話を聞かせられるかわからない。

なにを教えたらいいか、吟味しなければならないのだ。

嫌な夢を見たが、そんなことで気分を落としている場合ではない。

いつの間にか子供たちがやってくる時間だ。

今日は来るのが少し遅かった。

「今日は科学のことをもう少し教えてあげよう」

並んだ子供たちに、昨日からずっと用意していた言葉を投げかけた。

わー! やったあ、と子供たちは各々はしゃぐ。

「その前に。モノズ

モノズの頭に左手を置いて、話しかける。

「ん? オレ?」

モノズは『視』たいか?」

「え、見る?」

モノズは困惑していた。

今まで視覚というものがなくて当たり前の生活を送っていたのだから、当然なのかもしれない。

「あぁ。他のみんなと違ってモノズは何かを見ることができないね?」

「……うん」

モノズはいつもの勢いも削がれてしょんぼりとした声を出す。

優しくモノズの頭を撫でる。

「みんなの顔、視たいかい?」

「ほんとか!? ほんとに、ほんとに見れるのか!?」

「私がテレパシーを送って、見たのと同じようにすることならできるよ」

「オレ見たい! 見たいよ!!」

モノズはぴょんぴょんと飛び跳ねて全身で興奮を表していた。

推測だが、今まで見えないことで一人ぼっちになったりしたことも多分あっただろう。

なにぶん解決しようのない種族の問題だ。モノズ自身それはとっくに諦めていることだろうが、それでも心のどこかで不満はあったのではないだろうか。

だからこその喜びよう、なのだろう。

「リオル、フォッコ、オタチ。少し待っていてくれ」

「「「はーい!」」」

モノズ。準備はいいね? 視えてもびっくりしないでくれよ?」

「いいぜ!」

「……よし」

モノズの頭に乗せた左手に神経を集中する。

「うわっ! ……お、おぉ……!」

無事「視る」ことができたようだ。

モノズに送り込んだのは、私の姿のイメージだけ。

モノズから見れば、真っ暗闇の中に私だけが浮いているように見えるだろう。

むしろそれだけ情報量を絞ってやらないければモノズの脳は視覚という情報の洪水を処理しきれずに溺れてしまう。

「これがフーディン、さん……?」

「ああ。そうさ」

続いて私は白衣に手をかけた。

右の裾を引っ張ってモノズの目の前に持ってくる。

「これが白衣。触ってごらん」

モノズがゆっくりと足を一歩前に出した。

そして、何かに驚いたようにのけぞる。

「うわ、大きくなった!」

「そうさ。近づくとその分大きく見えるんだ。遠くのものはすごく小さく見えるんだよ」

「そうなのか!」

白衣をモノズの顔に触れさせてやった。

「ほら、ここまでくるとぶつかってしまうんだ」

「わかった!」

続いて私は時計のベルト部分をモノズの鼻先に触れさせた

「この触り心地は知ってるぞ!」

「そしてこれは時計。覚えてるかい?」

「あたりめーだろ! フーディンさんが草を編んで作ったやつ!」

「あぁ、巻く部分は確かに私が作ったね」

「へー、こんな形してたんだ」

モノズはしばらく私を眺め回していた。

モノズ、次はリオルたちを視よう」

「! ……おう!」

モノズは少しびっくりしたように口をぱくぱくさせて、それから覚悟を決めたと声を出した。

再びモノズの頭に左手を置いて、神経を集中する。

横にいる3匹の姿をモノズに送り込んだ。

「ほら、横を向いてごらん」

「……うわっ! 3匹いる!」

ソワソワとモノズが頭を揺らす。

そうか、モノズには誰がどの姿かまだわからないのか。

「みんな、1人ずつ誰が誰かわかるようにしてあげてくれ」

「リオルは僕だよ!」

フォッコは私!」

「オタチは私ー!」

モノズはまた顔を何度も動かして、3匹の顔を交互に見るような動きをした。

「……覚えたぞ! お前らのかお!」

「さて、モノズ。『見る』ってどんな感じかわかったかい?」

「わかった!!!」

「ならよかった」

よし。なんとかなった。

これは昨日からずっと考えていたアイデアだった。

なるべくみんなには実験の様子を実際に見て、強く印象付けてもらいたかったのだ。

実験の様子を見せること自体は、テレパシーと未来予知の要領で『ゆめうつし』することはできる。

しかしそれには、そもそもモノを見たこと自体がないモノズをどうするかという問題があった。

なんとかするためにモノズにも見られるようにしようと考えたわけだが、正直ぶっつけ本番だった。

本当に成功してよかった。







「よし、じゃあみんなお待たせ。科学のことを教えてあげよう」

「やった!!」

「今日は特別に、君たちに実験の様子を見せてあげよう」

「えー!?」

「見れるの!?」

「もちろん。さっきモノズに見せてあげたみたいにね。じゃあ目をつぶってみてくれ」

「はーい!」

「目をつぶっている間しか見えないから、しっかりつぶっておくんだよ」

「はーい!」

並んだ4匹に向かって、テレパシーを送り込む。

テレビがあるわけでもないこの状況ではの唯一映像を見せられる方法だ。

「……おぉ!」

「これがニンゲン……?」

「ハクイだ!」

「何を持ってるの?」

しっかりと映っているようだ。

私も同じ景色を見ることにしよう。

漆黒の世界に、アビスとケーシィの私と白い机が浮いていた。

「この白衣を着ているニンゲンがアビス。その横にいるのが小さい時の私。私が乗っているのは机って言って、物を乗せたり、その上でいろんなことをするためのものなんだ」

「これがニンゲンなんだ!」

フーディンさんちっちゃい!」

「さぁ、いいかい。今からよーく見ているんだよ。静かにね」

『ほらケーシィ、見て?』

ゆめうつしの映像の中で、アビスが喋り始めた。

野生の世界しか知らない4匹の子供たちにはアビスが何を言っているかわからないだろうが。

『しぃ?』

この頃はまだ、喋るほどの意思疎通ができるまで成長していなかった。

『お水。触ってごらん?』

アビスがケーシィに見せたのは、銀色のボウルに入った透明な液体だった。

銀の光を浴びてキラキラと水面が光る。

『けし? けー』

ケーシィはアビスをしばらく見つめた後、ボウルの中に手を入れた。

当然触れるのは水の冷たさだけだった。

『ね、水だよね。掬ってみよっか』

アビスはケーシィの手を持って、ケーシィの手で水の浅い部分を汲んで、水上に持ち上げた。

これも当然、小さなケーシィの手から水がこぼれるだけ。

『しけーしぃ?』

ケーシィも意図が汲めずに困惑していた。

『じゃあ、私の手、よく見ててね〜』

そう言ってアビスは白衣の袖を緩くまくった。

両手をそろえ、ボールの深いところに手を差し込む。

手を引き上げると、アビスの手から水がこぼれ——ることはなかった。

アビスの手には、透明な楕円球が乗っかっていた。

「えぇ〜〜‼︎ なんで⁉︎」

「お水が丸いよ⁉︎」

これには子供たちも驚いたようだった。

映像の中のケーシィも、手をバタつかせて驚きをあらわにしている。

『ふふ、びっくりした? 科学を使えば、「掴める水」も作れちゃうんだ。すごいでしょう?』

「科学の力があれば水を掴むこともできる、ってアビスは言ってるんだよ。すごいだろう?」

「すごーい‼︎」

「私もやりたい!」

「ニンゲンの世界に行けばできるさ」

そんなことを話している間にも、ケーシィは小さな水の粒で遊んでいた。







「じゃあ次の実験だ」

一旦テレパシーを送るのを止め、次のテレパシーを飛ばす。

同じようにアビスとケーシィ、作業机が映っている。

違うのは机に置いてあるもの。先程までの銀のボウルではなく、輪切りにされたノメルのみがいくつか置いてあった。

『ほら、ノメルのみだよ。舐めてみる?』

アビスがケーシィの口元に輪切りノメルのみを1つ近づけた。

ケーシィはぺろりとノメルの黄色い果肉をひと舐めする。

『っしぃ!』

ケーシィが舌を引っ込め、目をぎゅっと瞑って震えた。

『あはは、そうそう。すっぱいよね』

『けー』

目の前のノメルのみを押し除けるケーシィ。

『ごめんごめん。でもね、このすっぱい力ですごいことができるんだ』

アビスがケーシィと目線の高さを合わせると、ケーシィは不思議そうに揺れた。

「ノメルのみがすっぱいのはみんな知っているだろう? そのすっぱい力で今からアビスはすごいことをするんだ」

「すっぱい力で??」

「何ができるんだろ!」

アビスはノメルのみを2つ、タオルの上に置いた。

それぞれ赤橙色と青みがかった銀白色の板を机から取って、ノメルのみに差しこむ。

エレキッドにも似た形のものが2つ完成した。

『ほらケーシィ、これ見て』

アビスが右手に取ったのは、小さな箱に2枚の羽がついた機械。後ろには赤と黒の尻尾が1本ずつついていた。

左人差し指でくるくると羽を回して見せる。

『モーターって言うんだ。くるくる回るんだよ』

『し……』

じっと回る羽を見つめるケーシィ。

『これをここに置くでしょ。そしたら次はこれ』

次にアビスが取ったのは、赤と黒の細長いものだった。

その先端についた口を開閉しながらケーシィに向ける。

『わにわに〜』

『しけ』

『ありゃ、お気に召さなかったか。まいいや』

ワニぐちコードを一本ずつモーターの尻尾に噛ませ、黒いコードをノメルのみに刺した銀の板へ、赤いコードをもう一個のノメルのみの赤い板へと取り付ける。

そして3本目のコードをまだコードのついていない赤い板に取り付けた。

手のひらにモーターを乗せて、アビスはワニぐちを開閉しながらケーシィに聞く。

『これをぱくんってしたら、どうなると思う?』

『けーしぃ?』

『やってみるから、よーく見てるんだよ』

アビスがワニぐちの最後の1つを銀の板に繋いだ。

ぶろろろろ、と音を立てて、羽が回り始める。

映像の中のケーシィが飛び跳ねると同時に、子供たちも驚きの声を上げた。

「なんでー⁉︎」

「何もしてないのに回ってる‼︎」

「これがすっぱい力の使い方さ。どうだい?」

「カガク、すごいです!」

「これはまだ続きがあるんだ。静かに見ていてごらん」

ケーシィがしばらくモーターが生み出す風に当たっていると、アビスはワニぐちを外してしまった。

『けー?』

『もっとすごいのもあるよ』

次にアビスが取り出したのは、小さくて薄い、半透明の箱だった。モーターと同じように2本の尻尾が伸びている。

モーターにつけていたワニぐちをアビスはその箱の尻尾につけかえた。

ちろんちろんと音楽が流れ出す。

「『これは、電子オルゴールっていうんだ』」

ゆめうつしの中のアビスがケーシィに説明するのと、私が子供たちに説明するのはほぼ同時だった。

「なにこれー!」

「綺麗な音!」

「音が出せるようには見えない機械だけど、こうやって科学の力を使ってやれば綺麗な音が出せるんだ」

「私、これほしい!」

映像の中のケーシィも、オルゴールを手にそっと持って微笑んでいた。







気づけば太陽は白からオレンジに色を変えつつあった。

「じゃあ、最後に一番すごいものを見せてあげよう」

「すごいもの?」

「あぁ。私とアビスがずっと研究していたもの……サイコパワーの結晶についてだ」

「見たい!!」

「ジッケンだ!!」

「そう、実験。目を瞑って。よーく見ているんだよ」

4匹にまたテレパシーを送る。

今度映ったのは、隣同士に立つアビスとフーディンの姿の私、一般家庭のものよりさらに無機質な実験机。

机にはアビスの上半身ほどもありそうな大きな機械が置いてあった。

真四角のその機械の上面にはエレキッドの頭のような二本の金属がついている。

『じゃあ、いくよ?』

私に呼びかけると同時に左手の時計に手をかざすアビス。

私は鋭い目線を機械に向けた。

機械についた2本の金属の間に向かって左手を伸ばす。

集中。

同時にアビスが時計を操作する。

2本の金属の間に桃色に光る粒子が集まり始める。

機械を中心に周囲の空間がサイコパワーの渦を巻き始めた。

力の流れが凝縮され、互いに融合しあって、小さな塊を作っていく。

『いい調子。もう少しだけ、頑張れる?』

私は小さく頷いた。

薄桃色だったサイコパワー塊は紫がかった濃い光を発するまでに濃縮されていた。

『……今!』

アビスは左手で機械のボタンを、右手で左腕の時計を同時に押した。

2本の板から鋭い光が飛び出した。

ぴきん、と辺り一帯を凍らせるような音を立てて、電撃を浴びたサイコパワー塊が、かくばった結晶の形に固まる。

天井からの光を一部だけ反射して、キラキラと透き通った濃い桃色がその存在感を伝えていた。

同時に私の体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。

「…………」

「…………」

「で……できたっ!」

「ほんとにできた! すごいよ……あ……」

倒れた私に気付いて、アビスの顔から笑みが消え失せる。

「……ご、めん、ごめんね……」

アビスが倒れた私に手を伸ばした。

私はその手を払って、左手を機械に向ける。

『……わかった』

黒い空間に倒れ伏す私からそっと手を離して、アビスは機械に乗っている結晶に手を伸ばした。

結晶が柔らかなアビスの両手にぴったりと収まる。

両手でサイコパワー塊を持つアビスの目がいっぱいまで開かれた。

緩んだ口元から赤いアメがこぼれ落ちそうになるのをすんでのところで受け止める。

「本当にできたんだ……」

瞳はキラキラと光を吸って輝いていた。

私もにっこりと笑う。

当時の誇らしかった気持ちは今でもよく思い出せる。

フーディン!! 成功だよ‼︎』

倒れる私の元にふたたび膝をつく。

私も一瞬だけにこりと笑った。

紫の塊を機械に押し当てて、アビスは目を瞑った。

しゅぴん、と空気の動く音。

機械とアビスの手のサイコパワーが消え去った。

『やっぱり、私にも使える……!」

何度も何度も過去を見返していても、それでも色褪せることのない、輝いた笑顔だった。

三度膝をついて、アビスは私に話しかける。

『ほんとに、ありがとう。フーディン……』

アビスは右腕で私を抱き上げて、左手で私の頭を優しく撫でた。

「……あ、データデータ!」

私を優しく壁にもたれかけさせ、アビスはぱたぱたと機器の方へ走る。

カメラを覗いたり、パソコンのキーボードを叩いたり、嬉しそうながら忙しくし始める。

私は達成感と心地よい疲労に浸りながら、そんなアビスを眺めていた。







徐々にテレパシーを薄くしてフェードアウトさせた。

「3匹はもう目を開けてもいいよ」

言うと同時に3匹の視線が私を射抜く。

その目には、困惑の色が見て取れた。

モノズも心なしかせわしなく体を揺らしている。

確かに困惑しても仕方ないかもしれない。

サイコパワーの結晶も、昔に比べて出来が悪いとはいえ見たことがあるし、テレポートができるようになることも知っている。

だから前までの実験と同じような、見たこともない景色を楽しむようなことはなかっただろう。

それにあれはさっきまで見せたような楽しげな実験ではない。

本物の、文明が生まれる瞬間。

ポケモン世界の子供にはいまいち喜んでいる理由もピンと来ないかもしれない。

でも、どうしてもあの光景だけは、見せておきたかった。

失敗だっただろうか。

「……ニンゲンは優しいだろう?」

誘導するように問いかける。

「うん! 私のお母さんみたいだった!」

フォッコが力強く頷いた。

「ニンゲンもニンフィアさんみたいにポケモンを撫でるんだね」

「あとキカイ? もすごかったな!」

「ビリってしてたよね!」

「ニンゲンの作った機械も、ニンゲンも、すごいだろう?」

「アビスさん、嬉しそうな顔だったね」

「そうなのか? 俺は顔ってよくわかんねーけど」

「アビスは私のことも自分のことのように喜んでくれた。……優しいニンゲンだったさ」

「ニンゲンってほんとに優しいんだね!」

「もちろんニンゲン全員とは言わないがね。ポケモンにもいいポケモンと悪いポケモンんがいるのと一緒だね」

「ふーん」

フーディンさん、倒れてたね。苦しそうだった」

「あぁ。私もあの時は力を使いすぎたんだ」

「なんでですか?」

「自分が倒れるまで力を振り絞っても、アビスに協力したかったんだ。ニンゲンはポケモンに協力するし、ポケモンもニンゲンに協力しなくちゃ、実験はうまくいかないのさ」

「ニンゲンもフーディンさんもすごいな!」

「さぁ、そろそろ帰る時間かい?」

「うん!」

「ジカン?」

「時間は……そうだな、また今度お話ししてあげよう。今日はおかえり」

「はーい!」

洞窟を出ていく4匹の小さな背中を見送っていると、突然モノズくるりと回ってこちらを見た。

「また来るからな、じーちゃん!!」

それだけ言って、モノズはまた何もなかったように他の3匹に混じっていった。

形容のしがたい何かが体の芯を震わせた。

私は、今……嬉しいのか? これほどまでに?

4匹の背中が見えなくなるまで見送って、私はまた洞窟へ戻った。







——また来るからな、じーちゃん!!

モノズの言葉が頭に反響する。

ここまで何か感情を喚起されるのは久しぶりだった。

なぜ嬉しかったのか……理由……。

……アビスとの話を誰かにするのは久しぶりだった。

ニンゲンの話をすると、この森のポケモンたちは決まって嫌そうな顔をする。

このポケモンだけの世界では、ニンゲンは悪として扱われているから。

住処を奪っていったり、勝手に捕まえていったり、時には自分のポケモンに命令してこちらを攻撃してくる。この世界ではニンゲンはそういう存在として見なされている。

この森ではニンゲンの存在が認められることは決してなかった。

……そうか。だから嬉しかったのか。

今まで認められることのなかった、ニンゲンとの、アビスとの思い出が認められるのが。

ニンゲンのことを認めるポケモンが増えた。その事実だけで喜ばしい。

そうだ、気分の良さに身を任せて、少し散歩でもしようか。

頭の中で呟いて、テレポートを発動する。


森の中央を迂回して、私が訪れたのは森の中でもニンゲンの街に近い方向だった。

もちろんニンゲンの街に戻るつもりなどないが、行こうと思い立ったのはこの場所だった。

上空をゆっくりと漂って進む。

空は傾くどころかほとんど転覆して、西の一部以外は黒く染まっていた。

どさり、と何かが倒れる大きな音がした。

下を見ると、木が一本、横になっていた。

その根本には、森に似つかわしくないオレンジ色の何か。

ウィーン、と無慈悲な音がすぐさま聞こえてきた。

……伐採。

上空からぽつりと点のように小さくニンゲンの姿が見えた。

サーカスのピエロのように鮮やかなオレンジ色をした機械を持って、ニンゲンは近くの木に近づいた。

まるで本に出てくるような、殺戮ショー。

いや、愉悦すらなく無感情に殺しているのだからもっと酷いか。

ニンゲンが木にオレンジ色を近づけた。

バリバリバリ、と音が撒き散らされる。

振動を感じ取って、ムックル達が飛び立った。

「…………」

一概にニンゲンが悪いとは言えない。

確かにポケモンの居場所を奪うことが許されることではないが、ニンゲンにはまたニンゲンの生活があるというもの。

ニンゲンの世界でポケモンがニンゲンに危害を加えることだってないわけではない。

お互い様、なのだろう。

それにしても、久しぶりにきたこの場所は幾分か寂しく殺風景だった。

もう何十年前なのかも知らないから、当然なのかもしれないが。

……もう、寝ようか。

騒音をその場に置いたまま、わたしは再びテレポートを発動した。

連続のテレポートで住処まで戻り、定位置に体を横たえる。

眠りに落ちるまで木が伐採される音が耳の奥に残って離れなかった。







走る、走る、はしる。

見えない何かに追われて、ひたすらに走った。

頭の中に何かを考えるような余裕はもうない。

地面を蹴るたびに脚を刺すような鋭い痛みが走る。

でも、足を出すのは止められなかった。

浮いて移動するだけのサイコパワーを使う力なんてもう残っていない。

だから、走るしかない。

走り慣れていない脚はフラフラともつれておぼつかない。

自分の左足を右足で蹴り上げて、私はバランスを崩した。

咄嗟に両腕を前に突き出す。

両腕が地面に叩きつけられて、左手に鋭い痛みが、右腕に鈍い痛みが走った。

膝がしらも燃え上がる痛みを発し始める。

地面に両膝と左肘をついて、しばらく動けなかった。

——それでも。

左腕を地面に突き立てる。

続いて右足、左足。

立ち上がった私は生まれたてのシキジカのような、という表現がこれ以上ないくらいに適切だった。

膝が笑うなんて感覚を体感するのは初めてだ。

一歩、前に踏み出す。

もう一歩。また、地面を蹴る。

まだだ。まだ、足りない。もっと離れなくては。

早く離れなくては、戻りたくなってしまう。

着ている白衣は引っ張られるように後方に伸びて棚引く。

聞こえるのはそんな白衣が空気を打つ音と、自分の荒い息だけだった。

時間が経つにつれて、森の奥に近づくにつれて、目の前が暗くなっていく。

第8話 晦日

現実に引き戻されるような浮遊感がした。

目覚めたのだと遅れて理解する。

少しためらってから目を開けた。

外は一面の曇り空で時間は少しわかりづらかったが、外の明るさからして朝早くというわけでもないだろう。

少し寝過ぎてしまったようだ。

子供たちがくる前に話をまとめてしまわなければ。

きのみを取りに行って腹ごしらえをしてから、岩の上で子供たちにする話をまとめ始める。

しかし、まだ煮詰まり切らないうちに外がざわつき始めた。

洞窟から外に出ると、小さな4つの影がこちらに近づいてきた。

私が4匹を見つけるのと同時に4匹もこちらを見つけたようで、4匹は小走りに近づいてくる。

私も左手を振ろうと持ち上げた。

しかしその手は腰よりも上に挙げられることはなかった。

私と子供達の間の空間がぐにゃりと歪んだ。

エメラルドグリーンの光点がいくつも現れ始める。

しゅぴん、風を切る音がした。

鮮やかなパステルグリーンの頭から、真っ赤な瞳がこちらを射殺さんばかりに視線を送っていた。

「やはり、あなたでしたか」

目の前に現れたのは、サーナイトだった。

「……また会いましたね」

「よくそんな口がきけましたね。私たちのところの子たちを洗脳しておいて」

「違う‼︎!」

叫んだのは私よりももっと若く荒い声。

モノズ。あなたも今は洗脳されているだけよ。さぁ、帰りましょう」

ぴしゃりとモノズの言葉が打ち払われる。

「違うよサーナイトさん!」

「僕たちフーディンさんに頼んだんだ!」

「そうです! ニンゲンのこと、たくさん教えてもらったんです!」

ニンゲン。

その言葉が聞こえた瞬間に、子供達の方を向いていたサーナイトの首がぐるりと回った。

今にも殴りかかってきそうな目のままサーナイトは口を開いた。

「流石ですね。洗脳に隙がない。どんな話術なのですか? それとも、こういう力ですか?」

サーナイトがこちらに右手を振りかざした。

頭の中でいくつもの光が宿るようなそんな違和感がした。

……催眠術か。

催眠術だとバレてしまえば、催眠術に効力はなくなる。

軽く頭を振って、返事をした。

「残念ながら私含めフーディン族にはあなたがいま使ったような力は使えないよ。あなたのところにはケーシィの子供はいないのかい?」

「くっ……」

漫画なら額に青筋でも浮かんでいそうな苦悶の表情を見せるサーナイト

体は完全にこちらを向いて、臨戦態勢だった。

「改めてお聞きします。この子達に危険思想を植え付けているのはあなたですか?」

「その質問にわざわざYesと答えるポケモンもニンゲンもいないだろう。もちろん私だってそんなつもりは毛頭ない」

「ここ最近この子達が毎日どこかへ遊びに行って、暗くなってから帰ってくるから、おかしいとは思っていたんです。まさかこんなことに巻き込まれているなんて……」

「巻き込まれる? 私は求めに応じただけ。他意はないよ」

「私たちを害する存在について教えておいて、ですか?」

「それは都合の良すぎる考え方だね。ポケモンだってニンゲンの畑は荒らすし、建物は壊すし、ニンゲンの活動を妨げてばかりだ。でもニンゲンはポケモンと共同生活しようとしているんだよ」

「得体の知れないものの中にしまい込んで連れ去って、共同生活ですか? 都合のいい共同ですね」

モンスターボール……あれは確かに悪い使われ方もされるかもしれない。ポケモンとニンゲンが協力する中でなくてはならないもの。ポケモンを大切に守る、ニンゲンの思いやりの形だよ」

「ニンゲンがポケモンをちゃんと守っていたら、生まれたまま捨てられる子供なんていないんです……ッ」

「守られなかった子も確かにいるだろう。でもそれは全てのニンゲンの所業じゃない」

ポケモンに危害を加える個体がいる時点で、ニンゲンは敵でしょう」

「ニンゲンたちとてそれを良しとしているわけじゃない。ちゃんとポケモンを守ろうとしてくれているんだ」

「ニンゲンたちの考えなんて知りません。私はこの子たちにもう同じ思いはしてほしくない、それだけです。これ以上あらぬ話を焚き付けないでください」

「少なくとも私は事実しか聞かせていないし見せていないよ。話はともかく虚偽の映像を作り出す技術は私にはない」

私はサーナイトから目を離した。

サーナイトが庇うように後ろに隠す子供達をじっと見据える。

「キミ達、見ただろう! アビスのあの嬉しそうな顔を……」

「やめなさい‼︎」

怒りと悲痛さが絡み合った金切り声が響いた。

「……とにかく。もうこの子たちには近寄らないでください。それだけです」

しゅぴんとまた風を切る音。

反論の隙も与えずに、サーナイトは子供を連れて去っていった。

「…………」

しばらく私は子供達が先ほどまでいた虚空を見つめていた。

心に風穴が空いたような気持ち、とはこういう気分のことなのだろうか。

自分が思っていたよりも、あの子供たちへニンゲンの話をするのは楽しかったようだ。

それは多分、惰性に生きていたこの森での生活が、目標が生まれたことで少し変わったから。

たった数日間とはいえ、「やるべきこと」があったから。

でもそれも今日で終わりだ。

またあの子供たちが抜け出してここまで来る可能性だってないわけではない。

しかしそれはないだろうと、根拠はないがそう感じていた。

右手の肉塊に刺さるスプーンを見る。

2つのスプーンに移る2つの自分の顔は上下反転して宙吊りにされているようだった。

歪んだ顔を見ていられず、私は空を仰いだ。

空はまだ白黒はっきりしない微妙なグレーでいっぱいだった。

私は何か間違っていただろうか。

ニンゲンとポケモンが一緒に生きていくというのは間違っているだろうか。

……いや。いがみあって生きるより寄り添って生きる方がいいに決まっている。

一度凍ってしまった関係はそう簡単に溶かせるものではない。

それこそ私1匹の力では到底及ばない。

それでも、私があの子供たちに話した言葉が少しでも子供達を突き動かしてくれれば。

私が起こした小さな波があの子供たちに伝わって、また先へ伝わって、そうやって広がっていけば。

少しずつ広がって大きなエネルギーが集まれば、きっと凍った関係も温めて溶かすことができるはずだ。

だから、私は間違っていない。

間違ってはいないはずだ。

……起きてそう時間が経ったわけではないが、少し疲れた。

一旦寝ようか。

定位置に体を横たえて、私は目を瞑った。







ふと目が開いた。

自分が先ほどまで寝ていて、今起きたのだということに遅れて気づく。

夢は何一つ見なかった。

見なかったのか、見られなかったのか。実際はノンレム睡眠中に夢を見ていて覚えていないだけだろうが。

外はもう暗がりを作り始めている。

ひとまず外に出て、空を仰ぐ。

太陽は既に事切れていた。

少しずつ暗闇が注がれて空は見るたびに暗く生気を失っていく。

特にすることもない。散歩にでも行こうか。

私は空中に浮上した。

当てがあるでもなくふわふわと空中を進んでいく。

木の葉の一つが揺れる風も吹かず、風に身を任せることもできなかった。

それどころか、生き物がみんな死に絶えてしまったように錯覚されるほど、やけに静かだった。

あるいは時間が止まったような、そんな空間を何も考えずに漂い続ける。

ふと空を見た。

雲はほとんどない。

代わりに、月もそこにはなかった。

下弦を過ぎた月が登り始めるのはもっとずっと深夜だ。なくて当然。

あったところで細い月では光の足しにもならないだろう。

アビスとよく散歩に行くのも、このくらいの時間だった。

昼の間の研究データをまとめたりする作業がひと段落する時間。

家から外に出た瞬間吹き抜ける柔らかな風が好きだった。

あの時は月のない夜も人工灯が世界を明るく照らし出していた。

今言ったとて無い物ねだりにしかならないが。

懐かしい。

こうしていい思い出だけに浸ることができるのは、幸せなのかもしれない。

嫌だったこと。ニンゲンの嫌なところ。たくさん見てきたはずなのに。

子供達には一切伝えなかったニンゲンの側面。

嘘でこそないが完全な真実でもないことしか伝えなかった私は、確かにサーナイトの言う危険思想を植え付けていたのかもしれない。

ニンゲンは危険なのか?

この右手はニンゲンによって壊された。でも、アビスは危険ではない。

わからない。

——ジジ……ジ……lost

ふと耳に聞き慣れない音が入ってきた。

遥か上空。見上げると、不審な物体が浮いていた。

青。赤。青。……赤。

手と脚、胴体、頭がバラバラに離れて、それぞれが独立して浮かんでいた。

そんな奇妙なポケモンだが、見るのは初めてじゃない。名前は確か、ポリゴンZ

ポリゴン2にあやしいパッチを使うことで進化する姿。

ポリゴン2があやしいパッチによって壊されて生まれてしまった、心を持たない器。

アビスはポリゴン系列が苦手だった。

ポケモンのくせに生きている感じがしない、と言っていた。

——科学者はね、ポケモンとニンゲンの手の取り合い方を探す仕事だよ。

なんで嫌いなんだと尋ねた時、これだけをアビスは言った。

『ニンゲンがポケモンを作るだなんて、ニンゲンがポケモンを都合の良いように利用しているだけ。そんなのは科学者じゃない』……とかそんなことを言いたかったんじゃないかと今では思う。

とにかく、目の前をふわふわと漂っているだけのコイツは可哀想なポケモンだ。

私とよく似ているという意味でも、心を持たぬという意味でも。

なぜ研究所から出てここにいるのかもわからないが、助けてやろうじゃないか。

「おい、どうした。お前はこんなところにいるポケモンじゃないだろう」

話しかけると、ポリゴンZは顔だけをくるりとこちらに向けた。

「ジジ……stranger」

……学者同士の共通言語。

どう音を出しているのか、ポリゴンZの体の仕組みは不明だが、科学者が扱いやすいように習得させたのだろう。

この言語を習得するより先にニンゲンの世界を出てしまったから喋ることはできないが、簡単な言葉なら聞き取れる。

フーディンだ。お前はなぜここにいる」

一言も発さずに首をぐるぐると回転させるピエロを見ているうちに、私の口から言葉が突いて出た。

「……なぁ。時間があるなら、私の話を聞いていかないか」

それはただの思いつきだった。

ニンゲンに作られたこのポケモンならばなにを聞かせても構わないだろう、という気持ちもあった。

何も言わずそのまま去ってしまうのではとも思っていたが、ポリゴンZは私を見つめてきた。

話を聞いてくれるのだろうか。

少しホッとした。

「そうか。ならば、ついてきてくれ」

流石にここで浮きながら話すことはサイコパワー量的に無理がある。

住処に戻ってゆっくり話をしたい。

チグハグなピエロのようなポケモンは、私からポケモン3匹分離れて後をついてきた。







「ここだ」

「cave」

「……あぁ。入ってくれ」

警戒するようにも見えるそぶりで入ってくるポリゴンZを尻目に、私は定位置の石の上に座った。

「……ここで話すのは初めてではなくてな。今日までは来ていたのだが、たぶんここで話すことはこれが最後になる」

最後になる。別にそう決まったわけではない。

だが、なんとなく、勘がそう告げていた。

ぐるんぐるんとポリゴンZの頭が激しく回転する。

「…………」

私は自分の右手——右肉塊を見つめた。

「さぁ、話そう」

「las…………」



「私が今まで見てきた、全ての過去を」


第9話 繊月

私はかつてニンゲンたちの街に住んでいてな。

あるニンゲンと生活を共にしていたんだ。

アビス、という名前だった。

今はどうしているかわからない。

まあ恐らくもうこの世にはいないだろうな。

過去を見て、私と別れたあとアビスがどうなったのかを知ることは、一応できるにはできる。

……怖いんだ。

アビスがいないという事実を確認してしまうのは。

アビスとの思い出が本当に過去のものになってしまうようでどうにも怖い。

アビスと暮らしていた頃は本当にたくさんのことがあった。

何から話そうか。

……あんまり動き回らないでくれ。お前の体の色はあんまり好きじゃない。

その鮮やかな赤が嫌いなんだ。

あぁ。まずその理由からにしようか。

……アビスは、ずっと赤いアメを舐めていた。

甘いモノを食べすぎると虫歯というものになる、と本で見て制止しもしたが、まるで聞かなかった。

それも後から納得はいったがな。

……あのアメが、アビスを殺したんだ。

「いかりのこな」だ。

あのアメが赤い理由はいかりのこなを含んでいたからなんだ。

いかりのこなは知っているだろう?

『いかりのこな。イライラさせる 粉を 自分に ふりかけて 注意を ひく。相手の 攻撃を すべて 自分に むける。』

「いかりのこな」はそういう効果だ。



ポケモンが摂取した時は、な。



あの粉の本質は興奮作用だ。

生物として体がある程度丈夫なポケモンが吸い込んでも一時的にイライラするような作用が出るだけ。

だが、ポケモンに比べてそういった耐性が低いニンゲンがあの粉をまともに摂取したならどうなるか。

……麻薬と化すんだ。

ポケモンとは違って、本来ならありえないまでに精神が昂ってしまう。

アビスがどういう感覚を覚えていたのかはわからないが、少なくとも最初に「いかりのこな」を間違えて吸い込んだ時のアビスは明らかにニンゲンの域をはみ出ていた。

あの時アビスは膝から崩れ落ちて、だが頭は上に吊られているように上を向いていた。

そして、大きく見開いた目が、私と合ったんだ。

過去を見るとき私は俯瞰視点で見ているから、本当だったら目が合うはずはないのに。

だからアビスは虚空の一点をじっと見つめていたんだろう。

アビス……深淵……。

未来の私を、見てはいけないものを見てしまった私を見るように。

あの光を失った大きな眼球は忘れられない。


いわゆる麻薬の多くは依存性がある。

あの粉も、例外ではなかった。

いかりのこなについて詳しい効果が書かれた本は私の知る限りないが、確かにアビスは依存していた。

いかりのこなは研究用に飼われているモロバレルから取ることができてしまうし、その採取量は自己申告だった。いかりのこなが足りなくなってしまうこともなかったんだ。

だからアメを舐めるのをやめなかった。

多分死ぬまで、いかりのこなを摂取し続けただろうな。

……元々アビスはサイコパワーについて研究していたんだ。

サイコパワーというものの原理を解き明かして、ニンゲンやエスパー技の使えないポケモンにもサイコパワーを操れるようにしようとしていた。

私を家に飼い始めたのも、元はそのためだ。

ケーシィの一族は進化する前の時点ですでにサイコパワーの扱いに長けている。

研究用のポケモンとして用意されているチリーンでは届かないサイコパワー出力を求めて、アビスは私の卵を手に入れた。

あぁ。研究用のポケモンを説明していなかったか。

ポリゴンZ……お前に説明する必要があるのかは謎だがな。

研究に使っていいポケモンは政府によって本来制限を受けていてな。ある程度扱いやすく、繁殖能力の高いポケモンしか研究目的に使うことはできないきまりになっているんだ。

これは、無闇に野生のポケモンなんかをニンゲンの危険な研究に関わらせないための措置として機能しているはずだった。

だが実際は「ポケモントレーナー」として研究対象のポケモンを手に入れて、「研究者」としてそのポケモンを研究に巻き込むことができてしまっている。

言ってしまえば私もその被害にあった1匹だ。

そういった研究がなかったなら、私の右手はこんなことにはまずなっていないだろうからな。

この問題はニンゲンたちの間でも議論を呼んでいるんだが……まあそれは置いておこう。

とにかく、アビスはサイコパワーの研究を進めるために私を使ったんだ。

アビスが目指したのは、誰でもサイコパワーが使える世界。

サイコパワーを結晶化させて保存し、その結晶を使えば誰にでもサイコパワーが使えるような技術を創ろうとしていた。

私がリオルたちに使わせたのが、その研究の賜物さ。あれはアビスの努力の結晶なんだ。

サイコパワーが使えるようになるとすぐに私は実験に投入された。

幸い進化していないケーシィの状態でも、研究用のチリーンよりはサイコパワーの扱いに長けていたから、実験自体は私の存在で少しずつ進んでいった。

それでもまだサイコパワーの濃度が足りなかった。

当時はサイコパワーの濃度を上げるには、私が進化する以外に手立てはない。

だがポケモンが進化するには、一部のポケモンを除いて相応の時間がかかるものだ。

私が進化するまで待っていてはあまりに研究が遅れてしまう。

だから、アビスはポケモンの能力を強化する別の方法を探った。

文献などを漁って探した結果が、いかりのこなだったんだ。

いかりのこなには感情をコントロールする力がある。

バトル場で実際に吸ってしまう程度の少なさだからこそ、イライラしてしまうだけで攻撃の威力は上昇しない。

だが、適切に配分してやれば集中力の向上によって威力上昇が見込めるということにアビスは気づいたんだ。

アビスはいかりのこなを材料に、ポケモンの能力を引き出す薬を作り出した。

その過程で自分も粉を吸い込んで、人生を狂わせてしまったわけだがな。


そうだ、アビスがわざわざアメの形でいかりのこなを摂取していたのにも理由がある。

そもそも最初はタバコのように煙を吸っていたんだ。

手巻きタバコのように、中に怒りの粉を詰めて自分で作っていた。

それでも真っ赤な煙が出ることを除けば普通のタバコにしか見えないものだった。

問題が起こったのは私が成長して少し活動的になってからだ。

いかりのこなタバコを吸っているアビスの隣に近づいて、私はその煙を少し吸ってしまったことがある。

いかりのこなを吸ってしまったわけだから、バトル場で起こる現象のように、アビスに攻撃を始めてしまったんだ。

もちろん当時は技も使えないような時だったから何か怪我を負わせたりすることはなかったが、今後技を使えるようになってから同じことが起こったら怪我くらいはしてしまうだろう。

かといって家でいかりのこなを摂取できないのは耐えられない。

そんな問題を解決するためにアビスが作ったのがあの赤いアメさ。

既製品のアメを溶かして、そこにいかりのこなを混ぜ込んでまた固めれば魔法のアメが作られてしまう。

アメ玉の形に固定してしまうことで持ち運びやすく、怪しまれない。

卵焼きさえ砂糖を大量に入れる甘党だったアビスには余計にぴったりだっただろうな。

このアメのせいでアビスはずっといかりのこなを摂取し続けた。

それが原因でアビスは入院してしまった。

あのアメがアビスを殺したんだ。

……わかっている。アビスを殺したのはアメなんかじゃなくて、アビス自身だ。

どんなに疑われようとも嘘で塗り固めてまで、いかりのこなを摂取し続けたのはアビス自身だ。

……わかってはいるんだ。

でも……。



……この話はやめよう。

あとは……何があったかな。

そうだ、この右腕の話でもしようか。

ああ。この醜い肉塊の話だ。

この右手は進化不全によって起こってしまったこと。

進化不全というのは、ポケモンが進化するときに体の一部が進化しきれずに進化前のポケモンの体の特徴が残っていたり、運が悪ければ変形の途中で止まってしまうことだ。

原因には色々ある。多くは遺伝子的な問題だが、進化環境が悪いせいで発生することもある。

私は、後者。進化環境が悪かった。

そもそもユンゲラーというのは、ニンゲンの世界では通信進化によって進化するポケモンだ。

通信進化の原理についてはまだ色々な説が出ていて確定したわけではないが、現段階では、放射能が染色体を傷つけて情報を変えてしまうのと同じように、通信進化の過程の何らかの要素でDNAに変異が起きて、進化を引き起こす、というのが有力な説だ。

その中でもユンゲラーは、通信進化に対する遺伝子の影響が大きいポケモンとして有名だった。

何しろ他の通信進化出来るポケモンと違って、かわらずのいしを持たせていてもなお進化してしまうからな。

そして、通信交換の際にかわらずのいしを持たせていると、不完全な進化をしてしまう可能性が上がる。

ユンゲラーの遺伝子に進化を促進する力と抑制する力が重なってしまうから、中途半端になるんだ。

その結果、フーディンに進化したら消えるはずだった尻尾が残ってしまっているフーディンもいる。まあ尻尾が残っていること自体はフーディンへの苦痛はないはずだがな。

私の場合は、かわらずのいしを持たせたなんて生やさしい理由じゃない。

通信進化をせずとも強制的に進化できる装置の実験台になったんだ。

その装置の不具合で刺激が足りず、進化の流れが右手で止まってしまった。

右手は進化途中の肉塊のままになって、スプーンも先のすくう部分だけが二股に分かれてしまっている。

スプーンを握り込んだまま右手が肉塊になったから、スプーンと右手が一体化しているだろう。

これでも生体的にはスプーンと右手は別のもので、スプーンが動かされるたびに右手が内側からかき回されるような痛みが起こる。

ちょっとでも触れればもう痛いんだ。

何度もこの右腕の先を切り落とそうか迷った。

でも、できなかった。いや、しなかった。

切り落とすことはサイコカッターでできるし、止血法も知っている。痛みだって今更怖いものではない。フーディン族はスプーンがないとサイコパワーが使えなくなってしまうが、サイコパワーが使えなくとも生活はしていける。

でも、切り落とすことはしなかったし、これからもしない。

これも、私がニンゲンの世界にいた証だからな。

アビスがいなければ、この右手にはなっていなかった。

この右手を見ることで、私は昔ニンゲンの世界にいたんだと思うことができるんだ。

この右手が痛むことで、ニンゲンの世界の生活が思い出せるんだ。

右手が痛むと、たまにアビスの心配する声が聞こえる。

その度に自分の中でアビスはまだ生きているんだと思えるんだ。

だから、この右手を、わざわざ切り落とすことはしない。

ニンゲン界を忘れるのが怖いから。

この腕時計だって、バンドが切れたとき以外は外したことがない。

この白衣だって、いかりのこなが付着していようと脱いだことはない。

それと同じさ。


……私はニンゲンに執着しすぎではないのか?

いや、仕方ないんだ。

私はニンゲンとしか生活してこなかったから。

研究用のポケモンは一般の人の目に触れることはほぼない。

アビスはよく散歩に連れて行ってくれたから、研究用ポケモンたちの中ではこれでも圧倒的に外出の量が多い方だった。

一生外の世界を知らずに過ごすポケモンも多いからな……。

それでも、私はアビスの他のニンゲンは数人の科学者しか知らない。

じゃあこっちの森に来て自由になってからどうなったかと言えば。

ニンゲンを肯定するのは私だけ。

ニンゲンのことを話す私はニンゲンと同じように敵として見なされた。

……もうずっと前のことだがな。

この森に来てから、ポケモンだけの社会に私がいられる時間はそう長くなかった。

追い出されて、森の最北端……ここに来たんだ。

あれ以来1人で、何も生み出さず、ずっとここに意味もなく留まり続けている。

意味がないからと言って、死ぬことはできなかった。

この森でニンゲンのことをちゃんと知っているポケモンは私だけ。

その私がいなくなってしまえば、この森にはニンゲンのことを知るポケモンはいなくなる。

アビスのようなニンゲンがいることが忘れ去られてしまう。

そう思うと自殺なんてできなかった。

こうして私の経験はもう増えなくなった。

私は知っている世界が少なすぎるんだ。

他のポケモンと触れ合うこともなく、ひたすら過去を見て、感傷に浸ることしかしない生活を、もうどれだけ繰り返したか。

小さな世界をどれだけ反芻し続けたか。

……私にはもうニンゲンに執着することしかできないんだ。

他の選択肢を全て断たれて、また自分から断ったからな。

これでいいんだ。

アビスには恩があるから。

こんな生活で恩を返せているかはわからないが、少しでも恩を返さなければいけないんだ。

……恩?

恩とはなんなんだ……?

わからない。

第10話 三日月

……私の醜い思想の話などどうでもいいな。

他に、何を話そうか。

子供達に隠してきたこと……アビスとの思い出……。

たくさんありすぎるな。あまりにも。

そうだな、取り留めがなくなるかもしれないが、できごとの話をいくつかしよう。

お前はテレポートのこと、知っているな?

……まぁいい。お前が——戦闘用プログラムが、ポケモンの技を知らないわけはないだろうからな。

今から話すのは私が初めてテレポートを使えるようになったときの話だ。

まぁ、この時の私に物心はなかったがな。

みらいよちを応用すれば、私に物心がつく前、私が生まれる前の過去も知ることができる。

それに気づいたとき、私はアビスの全てを見た。

何度も何度も見た。

私が見る夢のほとんどが、私が過去を覗き見たときに目の当たりにした光景になるくらいにな。

私はもう、アビスの死に際以外の全てを知っている。

アビスがどんなニンゲンからどんなニンゲンになったのかも、全部。

……初めてのテレポートの話だったな。

私が見たことを話そう。



少し蒸し暑い、雨が降っている休日だった。

研究の成果は上々で、アビスは落ち着いていた。

上機嫌にアビスがパソコンに向かう傍で、まだケーシィだった私は、窓の外の水溜りをじっと見ていた。

もうその時のことは覚えていないが、雨粒がぶつかって波紋が広がる様子でも面白がっていたんだろう。

窓に引っ付いて熱心に水溜りを見ていたんだが。

いきなり窓の外が眩く発光した。

雷が鳴ったんだ。

びっくりして空を見上げた瞬間、私の体を振動が突き抜ける。

雷の凄まじい音を聞いたのはその時が初めてでな。

音が全部聞こえるよりも前に、私は反射的にテレポートした。

これが初めてのテレポートだった。

テレポート先は冷蔵庫の上。

初めてのテレポートで自分が何をしたのかわからなかったのか、その時の私はどこに自分がいるのかもわからない様子だった。

冷蔵庫の上は部屋のライトの照らしてくれない暗がりだったし、先ほどの雷の音も、怖かったんだろう。

私は震えながら縮こまっていた。

一方のアビスは、

——おー、割と近いな〜。見えてから聞こえるまで1秒もなかった。

なんて呑気に言っていた。

——ケーシィ大丈夫……あれ……いないっ!?

少し遅れて私がいないことに気づいたアビスは必死に私を探してくれた。

部屋中をドタバタと走り回って私を探す。

——ケーシィ!! どこにいるの? ケーシィ!? 

探しているうちに、ふとアビスが何かに気づいたように顔を跳ね上げた。

ーーあれ、今声……ケーシィ?

アビスは声と言っていたが、過去を見ていた私にはケーシィの声は聞こえなかった。

多分これが最初にテレパシーを使った時だったんだ。

今でこそニンゲンの言葉でテレパシーもできるが、その時はまだケーシィの言葉でしか発信できなかっただろう。

アビスからしてみればどこからともなくケーシィの鳴き声が頭に響いてくる状況になっていたはずだ。

混乱からか、アビスも慌てふためいていた。

ものでいっぱいの私がいるはずもないだろう引き出しも開けたりしていたからな。

だが最後にはアビスはちゃんと私を見付け出してくれた。

——いた!! ケーシィ、おいで。

冷蔵庫の縁から顔と手を出すアビスを見たとき、私の表情が崩れた。

動けなくなっている私をアビスは抱きかかえた。

——よかった……。怪我とかしてない? よしよし。

アビスは私を抱きしめながら、頭をゆっくり撫でた。

アビスが私を撫でることはこれまでも何回もあったが、こんなふうに強く抱きしめていたのはこれが初めてだった。

多分、その時からなんだ。

私がアビスに絶対的な信頼を置いたのは。

物心つくよりも前から、アビスだけは信じていいと思えた。

アビスに抱きしめられてやっと安心したんだろう、私はしばらく泣き続けた。

その間もアビスはずっと私の頭を撫でていた。

アビスの手つきは、優しかった。



私がアビスにここまでの信頼を抱くようになったきっかけは、見た中ではこれが一番大きそうな要因だった。

それまではケーシィの私はアビスを怖がっているような行動をすることがあったんだ。アビスの見えないところまで移動したりな。

あの頃はまだアビス自身もいかりのこなの覚醒作用をコントロールできていない節があって、うまく行かないときには私の前でも苛立ったりしていたのが原因だろう。

往々にして子供は感情に敏感なものだし、ましてやエスパータイプだから悪感情には敏感な種類も多いから自然だ。

だが先の一件以降、苛立つアビスから離れようとすることがなくなった。

遠くからアビスをじっと見つめるようになったんだ。

確かに記憶がある限りではうまくいっていなさそうなアビスを心配したことばかりだったから、多分その時から幼いながらに心配していたんだろう。

あぁ、たくさん心配した。

研究に上手くいっていないときはたくさん心配したし、慰めもした。

料理をしていればすぐに手を切るし。

そもそも研究に没頭して食事を抜くことも多かったな。

大事なミーティングの前には道に迷って遅刻しかけて。

ケガをしていても痛くないなんて言い張って。

体調が悪くても大丈夫だって言い張って。

何かといえば抱え込んで。

私の進化の件だってずっと自分を責めて。

最後だって、あのアメのせいで倒れて。

まぁ私も同じくらい心配をかけたんだろうがな。

……あぁ、そうだ。

私がアビスを慕うきっかけがあるように、アビスが私に愛を注いでくれた理由もまたあるんだ。

その話もしようか。

今度は後から見た過去だけじゃない、ちゃんと覚えてる話だ。



この右手になってからは、外には出られなくなってしまった。

だが、さっきも言ったか、ケーシィ時代はアビスと一緒によく散歩をした。

休みの日の昼下がりや、仕事が終わった夕暮れなんかにな。

その日も何の変哲もない冬晴れの夕暮れだった。

住宅街を、何をするでもなく1人と1匹でぶらぶらしていた。

すると前の方からまひるのすがたのルガルガンを連れたトレーナーが同じように散歩してきたんだ。

私よりずいぶん大きい体躯が怖かった私は、アビスの脚に抱きつくようにしてルガルガンを警戒していた。

だがそれがまたルガルガンには奇妙に映ったんだろうな。

——ばうっ‼︎ ガル……っ!

ルガルガンが私に吠えた。

私は驚いて、反射的にテレポートを発動してしまったんだ。

初めてのテレポートと同じように、位置を指定しないテレポートをしてしまった。

ゆっくり目を開いたら、目の前には金網があった。

金網の先は夕暮れの焦げた空。

少し目線を下にずらせば、目がくらむほどに地面が遠くにあった。

移動した先は、廃墟の屋上だったんだ。

もちろん当時は廃墟なんて知らなかったがな。

見ていたら金網の外に落ちそうな気がして慌てて振り返ると、苔むした大きなタンクがいくつも立っていた。

何が入っていたのかは知らないが、大きな丸いタンクだった。

当時の私にはそこはあまりにも不気味に感じられた。

不気味なタンクと金網に挟まれて動けなくなった私は泣くことしかできなかった。

それから数分も経たなかったと思う。

右側ずっと遠くからカツンと、鉄を叩く音がした。

理由は無い。ただそれがアビスのものだと私は直感していた。

カツンカツン、とその音は間違いなく私に近づいてくる。

ギシリと鉄がきしむ音も聞こえて、私は金網のない右側を凝視した。

また何度か鉄が軋んだとき、日の出みたいに階段から真っ黒な頭が現れた。

すぐにアビスの顔が見えて、アビスの瞳が私を捉えた。

「ケーシィ!」

目が合うとアビスはこちらに手を伸ばした。

真っ直ぐこちらに手のひらを差し出し——ガタン! と大きな音がして、アビスの頭がその場から消えた。

「いたた……」

小さな声が漏れたのが聞こえた。

またすぐにアビスはこちらに駆け寄ってきて、わたしの前で両膝をついた。

だいじょうぶ? 怪我してない?

真っ直ぐ真横にアビスの目があった。

多分あれを慈愛に満ちた目と言うんだと思う。優しげな目だった。

私を抱きあげようと触れたアビスの手は、寒空の温度を吸ったのか少し冷たかった。

「おっと、冷たいよね。ごめんね」

アビスは手を口元に寄せて、ゆっくり息を吐き出した。

吸っては何度も吐息を手にかけた。

そんなアビスの様子を見ていて、幼い私は脚から血が滲んでいることに気づいた。

先程のアビスが一瞬目の前から消えた瞬間。アビスが階段から足を踏みはずした時の怪我だった。

当時の私に知る由もないが、廃墟の階段は一部が脆くなっていて、アビスの体重を支えきれず落下していた。アビスがそのまま廃墟の階段から落ちていてもおかしくはなかった。

廃墟の階段に足をかけた時からアビスも足場が脆いことくらいわかっていただろうに。それでも私を助けに来てくれたんだ。

「しぃしぃ?」

「んー、ちょっと待っててね。もうちょっと温めるね」

確かその時は大丈夫かとアビスに聞いていたはずだ。

もちろんアビスにケーシィの言葉は通じなかったが。

アビスの両手が両手を触りあって、それからアビスは手を首筋に当てた。

少しアビスが震える。

「……よし」

そうしてアビスはわたしにもう一度手を伸ばした。

抱き上げる手は、今度は温かかった。

抱き上げたまま、アビスは私の頭に頬をつけた。

まるで包み込まれたようだった。

「よしよし、怖かったね。帰ろうね」

きゅっと私を抱きしめる力が強くなった。

少し苦しくて、だが不快ではなかった。

アビスの右手が私の後頭部を優しく撫でた。

ひと撫でごとに凍っていた体がほぐれた。

「よし、行こっか」

アビスは私を抱えたまま立ち上がった。

「あ、見てケーシィ!」

「しぃ?」

アビスが指を差した方向をつられて見上げる。

橙色と藍色が混じってグラデーションを作る中に、きらりと光るつぶが一つ漂っていた。

「一番星! 綺麗でしょ?」

たった一つの光点を1人と1匹で時間も忘れて眺めていた。

後から見たアビスの瞳は茜色の空の光を浴びてキラキラと輝いていた。



他にもたくさんの要因はあっただろうが、この出来事で自分は変わったのだとアビスは後で言っていた。

——自分の研究以外への興味はなく、それゆえ非検体であるポケモンに対しても冷酷、道具のように扱う。

少なくない科学者はこういうヤツらで、アビスもこんな考え方がないわけではなかったと。

こと、研究中にその傾向が強く出るのは、私も過去を見ていてよく感じた。

まあ研究中の攻撃性はあのアメの影響もあっただろうが。

本当は、性根は、アビスは優しいニンゲンなんだ。そんなことは私が生まれた瞬間を見ればすぐにわかる。

とにかく、アビスは自分のことを冷酷なニンゲンだと思っていたんだ。だが、ケーシィ、私がいなくなったときの焦り具合は明らかに残虐な科学者が感じるべき気持ちではなかった。

そんな自分の心の揺れ動きに疑問を持ったから、ただの冷酷な科学者にならずに済んだのだと、ずっと前に1人で呟いていた。

——フーディンのおかげだよ。ありがとね。

私が何かすると、アビスは決まって笑いながらこう言っていた。

私といる時間が長くなるにつれて、アビスはどんどん優しくなっていった。

今話した心変わりもそうだし、怒りの粉に耐性ができてあまり攻撃性が発現しなくなったのも、多分その理由だろう。

…………。

…………はぁ。

楽しい思い出は話していてもキリがないな。

ポリゴンZ、お前も飽きただろう。



もう核心を話そうか。

アビスと私の実験の話だ。

第11話 上弦の月

私が最初に実験に関わったのは、テレポートが使えるようになって1年ちょっと経ってからだった。

技マシンでサイコショックを覚えさせられて、特訓をしていたんだ。

残暑の頃にはサイコパワーがある程度操れるようになっていた。

「いくよ、サイコショック!!」

アビスが棒付きの真っ赤な飴を身代わり人形に振りかざしながら掛け声を発する。

それに合わせて、身代わり人形に無数の桃色の破片が突き刺さった。

身代わり人形の右腕から綿が飛び出す。

「ケーシィすごい! 完璧だよ!!」

アビスは飴を持っていない左手で横からゆっくり2、3度私の頭を撫で、それから私の正面に向き直った。

この頃にはアビスはいかりのこなの研究をあらかた終えていたから、もうあの飴を舐めていた。

右手の飴を口の中に戻して、アビスは口籠った。

何かを躊躇しているようにしばらく目が下を泳いでいた。

アビスの目が私の目を一直線に射抜く。

「……ねぇ、ケーシィ。科学は好き?」

「けーし」

私はゆっくり頷いた。

私が4匹の子供たちに見せたようなあの科学実験を見せてもらったのはこの少し前の時だ。

当然私もその科学とやらに魅入られていた。

「じゃあ、科学のために私に協力してくれる?」

私は勢い良く頷いた。

アビスはすぐさま出かける準備をして、私の手を引いて家を出た。

雨が降っている中アビスに連れられるままに辿り着いたのは、知らない場所だった。

窓もほとんどなくのっぺりとした壁に包まれた、箱のような建物の外見は確かにいつもの研究所に似ている。しかし確実に違う場所だと当時の私もわかっていた。

建物の中は自然光が一切入ってこない、人工灯だけの薄暗い空間。

ずっと同じ通路が続いていそうな長い廊下をアビスはずんずん進んでいく。

気味の悪い場所だったが、アビスと繋いだ手を離して立ちすくむわけにもいかず、私も進んだ。

アビスが立ち止った場所には大きな扉があった。

サイコパワーの計測を行うための部屋に連れて行かれたんだ。

開くと、扉は当時の私の拳ほどに厚い。

そう、ちょうどレントゲン室のような、密閉された部屋だ。

内部には薄緑色の大きなテーブルが一つだけ用意されていた。

「よいしょ!」

アビスは屈んで私を抱き上げて、そのテーブルの中央に私を座らせた。

「しぃ?」

「ケーシィ、今からケーシィのかっこいい技を見せてほしいの。できる?」

「しぃ!」

「よし! じゃあお願いね」

アビスは私の目の前に立って、机に座る私を見下ろした。

同時に左手の腕時計を右手で操作する。

「ケーシィ、サイコショック!」

アビスの命令とともに、私はそれまで練習してきたように技を発動した。

私とアビスの間に無数の小さな桃色の粒子が出現する。

「真ん中に集めて!!」

この指示はそれまで聞いたことがなかった。

しかし言われたようにしてみようと、私は粒をかき集めるイメージを頭に作った。

真ん中に集まった粒子は少しずつ融合して、欠片を形成する。

「もっと集めて!!」

欠片をさらに動かそうとイメージしたが、粒子よりも大きくなったサイコパワーの塊はそれだけ動かすのが難しくなっていた。

イメージの通りに動かない。そのことに焦って混乱した私はサイコショックの発動を止めてしまった。

空間に浮かんでいた粒子や欠片が幻覚だったように霧散する。

最初の実験は失敗だった。

私は俯いたあと、ハッと気付いて恐る恐るアビスの顔色を窺った。

アビスは微笑んでいた。

「頑張ったね! すごかったよ」

正面にきたアビスと目線が合った。

アビスは私の頭に手を伸ばした。

「手伝ってくれてありがと。私もまだできるかもわかってないことだけど、一緒にできるように頑張ってくれたら嬉しいな」

「……しぃ!」

私も頼られるのが嬉しい時期だったから、そう言われれば俄然やる気が出た。

「お、やる気だね。じゃあもう一回やってみよ!」

「けー!」



最初の実験の日は一回も成功することなく終わった。

少なくともアビスの拳くらいの大きさの塊ができないことには、結晶化させることもできない。まだ実験は進展しそうになかった。

それでも私は嬉しかった。

アビスに貢献できたことも、アビスに褒められたことも。

それから毎日私は塊を作る練習をした。

やる気があったのもあって、1ヶ月も練習すると拳大の塊を作れるようになった。

そうしてサイコパワーを計測する研究所にまた訪れることになる。

例の研究所はやはりちゃんと電灯がついてるのに薄暗かった。

その頃は夏になり始めていたから太陽もさんさんと輝いていたが、自然光の入らない研究所には関係なかった。

だが、当時の私はもう怖いとは思っていなかった。

薄暗さにも慣れたし、何よりここでは私が活躍できる。

いつもの研究所ではアビスが何やらしているのをカゴの中から眺めることしかできないが、ここでは私が主役になれるから。

この前来たときにそれを知っていたから場の恐怖も消えてご機嫌だった。

分厚い扉をアビスが開くと、中にはまた薄緑のテーブルだけが置かれていた。

アビスは前のように私をテーブルの上に座らせた。

もうすぐ実験が始まる。そう意気込んでいると、アビスは「ちょっと1人で待っててね」とだけ言って部屋を去ってしまった。

しばらくして、アビスは大きな機械を手と顎で押さえて持って帰ってきた。

「ケーシィどいててね! ……よいしょ!」

どすん、と重い音がしてテーブルが少し揺れた。

「おっとと」

アビスが手に持っていた棒付きの真っ赤な飴を落としかける。

喋れないと困るからと、荷物を持っている時は手に持っていたんだろう。

目の前に来たその機械は真四角で、上にはエレキッドの頭のような二本の金属がついていた。

機械は私よりも背丈が高くて、私を見下ろしているようだった。

「はい、ケーシィもこの上にきて」

アビスは小さな台を机に置いた。

私は機械とほぼ同じ背丈になった。

「さぁ。私が合図したら、この針の間にサイコパワーの塊を作ってね」

「しー……しぃ!」

「よし。じゃあ、いくよ?」

アビスが左手の時計に手をかざす。

「ケーシィ、サイコショック!」

合図とともに私はサイコショックを発動した。

空間が歪んで、無数の光点が出現する。

サイコパワーの粒たちは2本の針の間に吸い込まれるように集まった。

透明度の高い薄桃色のサイコパワー塊がタイムラプス映像のように非現実的な滑らかさで大きく育っていく。

「……そろそろかな」

アビスが機械のつまみの一つを少し回した。

ぱちん、目の前で空気が弾けた。

小さな閃光が一瞬目を焼く。

同時に、サイコ粒子が言うことをきかなくなった。

まるで点いていたテレビが突然消えてしまうように前触れもなく制御ができなくなる。

御する力を無くしたサイコパワーの塊は霧になって空間に溶けていってしまう。

私は自分のものが取り上げられてしまったような淡い恐怖感を抱いた。

「ダメかぁ。ケーシィ、びっくりさせてごめんね」

よしよし、とアビスは私の頭を数回撫でる。

恐怖感が少し和らいだ。

「よし、ケーシィはちょっと休んでてね」

アビスは私から離れ、椅子を引き出して机に向かった。

ノートパソコンを広げて、なにやら打ち込み始める。

「電気的ショックに耐えられるだけのサイコパワー維持能力が足りてない……不足している……と。これは……」

打鍵音とアビスの小さな呟きが部屋を満たす。

私もしばらくは特になにもしていなかったが、そのうち暇になってアビスの頭に抱きついた。

「ちょっと待っててね〜」

アビスは私には目もくれずに文章を打っていた。

「しぃー」

「なぁに〜」

「しぃー」

「よしよし〜」

「…………」

「…………」

「けしぃ〜〜」

「んーーーあーーー……わかったわかった!」

アビスは手を後頭部に回して私を捕まえると、私がアビスの方へ向くように向きを変えて、私を膝の上に乗せた。

「よしよし、がんばったね。ちょっと休憩しててね」

アビスは私を体側に寄せて、白衣で私を包み込んだ。

心地いい温かさに包まれると、私はすぐに寝入ってしまった。

ふーっとアビスが息を吐いた。

「……よし」

アビスはまたパソコンに向かって実験結果を考察する作業に戻った。



その日の実験はまだ終わらない。

私が起きたのは昼下がり。

ピカチュウ柄の黒いブランケットにくるまって、机の上に横たわっていた。

起き上がると、前方に手にポケモンフーズの皿を持ったアビスがいた。

「あ、ちょうど起きたか」

アビスは皿を持ったままこちらに近づいてきて、皿を置こうとして少し止まった。

アビスの目が泳ぐ。

その違和感に当時の私が気づいて首をかしげるよりも先にアビスは私の前にポケモンフーズの皿を置いた。

中に入っているポケモンフーズはいつもよりも少し赤みがかっていて、部屋の光を反射してキラキラ光っていた。

アビスの作った薬が混ぜられているポケモンフーズだった。

「お腹減ったでしょ。お昼ご飯食べよっか」

「しぃ!」

アビスは椅子を私の近くまで持ってきて座った。

私が寝ている間に買ってきていたコンビニのおにぎりを取り出して、するするとラッピングを解いて食べ始める。

つられて私もポケモンフーズを手に持った。

その時の私はアビスの作った薬が混ぜられていることなど気づくわけもない。

「どう? おいしい?」

「けっしぃ!」

元気よくむしゃむしゃと食べ進めてすぐに食べ終わってしまった。

「あ、もう食べちゃったの? ちょっと待っててね」

アビスが食べ終わるのを待つ間に、私は体に変化を感じていた。

昼寝から起きたばかりなのにぱっちり目が冴えている。

体の内側から力が湧いてきて、芯で渦巻いている気がした。

何かを求めて体がうずうずしていた。

「ごちそうさまでした……よしケーシィ、実験しよっか」

「しぃっ!」

私は台の上に座って、目の前の機械をにらみつけた。

「じゃあまた合図するからさっきみたいにお願いね」

「しぃ!」

「よし……ケーシィ、サイコショック!」

合図に合わせて私は空間に思念を送った。

空間が歪んで、無数の光点が出現する。

サイコパワーの粒が機械の下に動き始める。

桃色の光点が1つに融合して周囲に存在する数が減っていく。

「ケーシィ、もっと増やせる?」

私はさらに周囲にサイコパワーの粒を発生させた。

「おぉ、すごいよケーシィ!」

今までの私はサイコパワーの塊を追加発生させるようなことはできなかった。

紛れもなくアビスが私に食べさせた薬の効果が出ていた。

中央のサイコパワー塊は前回よりも速いスピードで成長していく。

大きくなるにつれてその色の濃さも緩やかに増していった。

「よし、そのままがんばって〜……。ケーシィ、びっくりしないでね」

アビスがまた機器のつまみを回した。

ぱちっとまた電気が跳ねる。

綿菓子のようにふわふわと動いていたサイコパワーの塊が、動きを止めた。

すぐに桃色の塊はほろほろと空気中に溶けていってしまう。

しかし一瞬、本当に瞬きをする少しの間だけ、サイコパワー塊が宝石のような光の反射を見せたのをアビスは見逃していなかった。

「で、できたっ! 出来てる!」

アビスの目がらんらんと光り出す。

「映像! 映像見なきゃ‼︎」

機器の横に設置されていたカメラに瞬時に手を伸ばす。

画面の中ではサイコパワー塊がゆらりゆらりと成長している。

スローモーション技術によって時間が遅々と流れる世界をアビスはそわそわしながら眺めていた。

……その奥で私がぐったりと倒れているのも気づかずに。

画面の中のサイコパワー塊にゆっくりと電流が走る。

一定の形を取らずにふわふわと浮いていたサイコパワー塊が、一瞬だけ凍ってしまったみたいに動きを止めたのを、カメラはしっかりと捉えていたようだった。

「やっぱりできてる、できてるよ! ケー……シィ?」

やっとアビスは私の状態に気づいた。

しかし、サイコパワー塊の映像に向けていた鋭い視線は鳴りを潜めなかった。

アビスの瞳がサイコパワー塊を観察するのと同じ冷たさでケーシィを捉える。

「疲れ……。確実に副作用だ。興奮作用が切れた後の……」

アビスはブツブツと考え事を呟きながら、ぐったりしたままの私にヘルメットのような装置を被せた。

「脳波は若干の乱れ……心拍数がかなり高いかな」

「け……しぃ……」

しばらくして弱々しく私が鳴いた。

はっとアビスの瞳に光が戻る。

「ご、ごめんねケーシィ‼︎ 疲れたよね、ごめんね」

慌てて頭に被せていた計測器を外し、私を抱き上げる。

「ごめんね……これからは無理させないようにするからね……」

何度も何度もアビスに頭を撫でられているうちに、疲れもあってか私は眠ってしまった。

アビスは私をブランケットに包んで、機器を片付け始めた。

片付け終わって施設を出ても、苦虫を噛み潰した表情は和らがなかった。

――ポケモンを道具のように使い潰すような真似だけはしたくない。

ものを理解したあとの私にアビスはよく言っていたから、ずっと罪悪感に苛まれていたのだろう。

研究者ではあるものの、アビスは優しかった。

……話はこれだけでは済まないのだがな。

第12話 小望月

それから半月ほど経つ頃には、アビスは暴走を抑えて副作用を低減した薬を作っていた。

もう半月かけて、実験用ポケモンを使って臨床試験をしていたのも今の私は知っている。

「ケーシィ、今日は前やったみたいに協力してほしいの。お願いできる?」

うんうんと私は元気よく頷いた。

一ヶ月も経てば倒れたことなんて忘れてしまっているし、アビスに協力できる方が嬉しかった。

その日は夏真っ盛りには珍しく空は黒灰色の入道雲に一面覆われていた。

前の実験と同じ薄暗い研究所に入って、午前中にはアビスが作った薬が作用していない状態で実験をした。

いわゆる対称実験、効き目の差を確認するために薬が作用していない状態も必要なためだ。



午後になって、私はまた薬の混ぜられたポケモンフーズを食べた。

赤みがかかっていることは、やっぱり当時は気づかなかった。

食べ終えてから、そわそわしてアビスの周りをうろうろとしているくらいにはいつもより元気があって、端からみても薬の効果は現れていた。

「よし、実験するよ!」

「しぃっ!」

台の上に座ってアビスの指示を待つ。

「ケーシィ、サイコショック!」

機器の中央にサイコパワーを集中させる。

意識をサイコパワーに集中していたそのときだった。

「えっ……!?」

カッと私の全身から青く光り始める。

私の視界はもちろんだが、部屋中が青白い閃光に満たされる。

私は身体の内側から力が噴き出してくるのを感じた。

内側から突き上げる力が、身体を大きく膨らませていく。

右手に力がしばらく集中してから、光は収まっていった。

気づけば右手には何か知らないものを持っていた。

なんだろう、とアビスを振り向こうとすると、自分の身体に違和感があった。

肩も腕も尻尾も、大きくなっている。

振り返ると、アビスはぽかんと口を少し開けて、目を見開いたまま固まっていた。

たっぷり数秒は視線を交わしていた。

アビスの瞳がキラキラと輝き出す。



「……す、すごいよケーシィ!! いや……ユンゲラー、だよね!」



まばゆいくらいに満面の笑顔だった。

対して私はコダックのように頭をかしげていた。

ユンゲラーという単語が分からずに疑問に思っていたのは覚えているが、こんなにとぼけた顔をしていたのかと、あとから見て可笑しく思ったのを覚えている。

「あ、えっとね。ケーシィは進化したんだ。ケーシィはユンゲラーになったの。……わかるかな」

よく分からないが自分は変わったのだということは当時の私にもわかった。

ユンゲラー、ちょっと待っててね。今日の実験は一旦終わり」

自分の変化に困惑しているうちに、アビスが手早く機器を片付けてしまう。

「今からちょっと別のところに行くんだ。ついてきて!」

優しくはあるものの、アビスは研究者だった。

唐突の展開の連続に戸惑いながらも私はアビスの後について行った。



着いた先は研究所全体の一番奥の奥。

建物の中は1階の時点でやはり薄暗かった。

階段を降りて、ずんずんとアビスは地下へ進んでいく。

少し怖かった記憶があるが、私はアビスについて行った。

天井にはパイプが張り巡らされ、人工灯だけが無機質に廊下を照らしている。

廊下を少し進むと、アビスがドアをノックした。

「アビスくんか。……おぉ」

白衣姿の初老の男がドアを開けた。

中にいた数人が一斉に私を見る。

「ケーシィ進化したんだ」

「やっと試すことができるな」

「今までは理論を詰めるだけだったからねぇ」

「はい! 実験はいつにしましょうか」

「できることなら今からでもやりたいところだね」

「装置はいつでも準備できてますよ」

「よし。じゃあすぐにかかろうか」

鶴髪の男が指示を出すと、実験室にいた男女はそれぞれテーブルに散らばっていった。

「いやーやっと来たね」

「進化は一匹のポケモンに一回だけですからね。そうそうやれません」

「しかも通信交換で進化するポケモンもそう多くないしな」

「抜かりなくデータを取るんだよ」

「もちろんです!」

当時はよくわからないが私が来てよかったらしいとしか思っていなかった。

これから始まることも知らずに。

ユンゲラー、ちょっと待っててね。もう少ししたら別の実験に協力してほしいの」

「ゆん? ……ゆげ」

アビスはいつも通り例のアメを舐めて立っているだけだったから、私もアビスの白衣の袖口を握って待っていた。

「準備できました!」

「よし。ユンゲラー、こっちに来て」

アビスにつられ着いていった先には大きな装置があった。

高さは2mほど、直径1mほどの、円筒状のガラスのカプセル。

その上下には巨大な電極のような何かがついていた。

例えるなら、中に生理食塩水でも満たして人造の命でも作っていそうな、そんな不気味な装置。

「この中に入るの。そしたら真ん中で立っててね」

少し怖かったが、アビスが言うなら大丈夫だろうと私は指示に従った。

カプセルの扉が閉められ、私は閉じ込められた。

カッと上下から眩い光を浴びせられる。

目が眩んでフラフラと揺れ動く体を踏ん張りながら、明るさに慣れるまでに数秒を要した。

暗い。

周り一面は少しの光も見逃さないようにとの暗闇で、私だけが影のできる隙間もないまでの光に全身囲まれていた。

うっすら見えるのは、ガラスの向こう側にいるアビスの白衣。

いつもの真っ赤なアメは舐めるのも忘れて棒部分を手に持っている。

その手は何への緊張か、痛そうなまでに握り締められていた。

周りにはやはりガラス越しに、白衣の男女がペンと紙の挟まれたボードを手に私を取り囲んでいた。

「それでは開始します。よろしいですか?」

ガラス越しにくぐもった声が聞こえてきた。

アビスを含め周りのニンゲンたちは各々頷いた。

「それでは」

真横にいる男が、私が入っている機械を操作し始めた。

チリっと頭頂部に違和感が弾ける。

小さな電流が当たっているような、痺れに近い感覚。

次の瞬間、全身の細胞が震えだした。

力が持て余すほどにみなぎっている。

ほのかに温かい力が私の体内を駆け巡り——

ドクン。

右手が脈打って強く痛んだ。

青空のような青い光に包まれていた視界が、鮮血のような凶暴な赤に染まる。

内側から肉をかき回されるような燃える痛みに右腕を強張らせながら、私はガラスの外側を見た。

手。

ガラスに押し当てられて柔く潰れた白い2つの手のひらだけがくっきりと見えた。

アビスは、大事なアメも落としてガラスに包まれた器具の外で震えていた。

右腕を灼く痛みが更に強くなる。

アビスの指が折り曲げられた。

私とアビスを隔てるガラスを引っ掻くように、無念の力がこもっていた。

アビスの目から何かがこぼれ落ちて、機械の光を受けてきらりと輝いた。

その滴が、頬を伝って、落ちて……。

当時の私の意識はそこでぷつりと切れてしまった。

実験が終わる頃には、アビスは力尽きたように地面にへたり込んでいた。

俯いた顔は涙が伝い、絶望に歪んでいた。

カプセルの中で倒れた私は、もう今と同じ醜い姿。

その場の誰もがしばらく言葉を発しなかった。

「……アビスさん、ユンゲラーを介抱してあげてください」

モンスターボールもこの場で使っていいだろう。私から話を通しておく」

アビスは焦点の合わない瞳のまま、私をモンスタボールに戻した。

「二股に分かれたスプーン、赤い光、か」

「青よりもエネルギーが低い……エネルギー出力が足りなかった、ということですか」

「わからない。だが起きたのは間違いなく進化不全障害だね。それも、ひどい」

「…………」

「ひとまず記録だ。残念だったが、研究職の仕事を忘れちゃならん」

装置の不十分さの議論を背に、アビスは震える足取りで部屋を出ていった。



目が覚めた時私は家の寝床に横たわっていた。

部屋は真っ暗で、かろうじて寝床の横にある窓から電灯の光が入ってきているだけ。

首だけを持ち上げると、灯りが私の変わり果てた右手を隠さず照らしていた。

見たこともない二股のスプーン。

指もない。

なんだかイマイチよくわからなかった。

フーディンを見たことはこれまでない。

でも、少なくとも普通のフーディンはこんな手ではないだろうなということはわかった。

外の光を見れば、電灯の光に混ざって十三夜月が輝いていた。

起きるために右手を床に立てようとすれば、電流のような痛みが走る。

「でぃっ……」

聞き覚えのない声が漏れて、自分が進化したのだということを少し実感した。

2回も進化したからか、急にいろいろなことが考えられるようになったなと感じたのもよく覚えている。

「あ、起きたんだ。よかった……」

今にも消えてなくなりそうな細い声が私の腕のあたりから聞こえた。

部屋の暗闇に溶け込むような真っ黒な髪のせいでその表情は見えない。

アビスは私の右腕の下あたりに突っ伏していたようだった。

その時の時間は22時ごろ。帰って来たのは16時前だったから、6時間は私の足元で泣いている。

日が傾いても、日が落ちても、ずっと泣いていたのを今の私は知っている。

アビスに右手を伸ばそうとして、また腕に痛みが走り抜ける。

思わず顔を歪める。

「手、痛いんだよね」

「…………」

「……ごめん。……ごめんね」

外の電灯の光がアビスの頬の涙を光らせて炙り出した。

「……ごめんなさい。もう、疲れさせたりするような、こと、しないって言っ……」

すすり泣きと嗚咽で何を言っているのかもわからなくなってしまっていた。

私とてアビスに泣いて欲しいわけではなかったが、何をすればいいのかわからない。

無機質な白の光に照らされる、血の気のない真っ白な手が目に入った。

私の足に縋り付くようにして泣くアビスの手を、そっと左手でつつく。

アビスが顔を跳ね上げる。

アビスの右手に自分の左手を重ねた。

ぎゅっと包み込んで、私は持ち上げていた首を下ろして天井を見上げた。

そして、アビスの右手を自分の頭の方へ引っ張り上げる。

「……進化しても、そこは変わらないんだね」

当時の私には見えなかったが、アビスはハッとした表情になった後、口角を少しだけ上げた。

アビスは私の頭のそばにきて、しばらく私の頭を撫でていた。

「……私、研究はもうやめる」

「ふー……?」

「稼ぎ口だから、研究自体をやめることはできないけど。でも私が今までやろうとしてたことは、もうやめる」

「私の夢はまだもしかしたら実現できるかもしれないけれど。でも、それはもしかしたら私の思った通りの夢じゃないかもしれないから」

「……これ以上ポケモンを傷つけられないから」

「でぃん……」

1日にいろいろなことが起こりすぎて、私自身整理がついていなかった。

その当時はまだ自分の体が大変なことになっているということすら実感がない。

アビスに撫でられたまま何も考えずに天井を見つめているうちに、私は眠りに落ちていた。



翌日アビスはポケモンセンターに向かっていた。

もちろん私はモンスターボールの中だ。

着いたのは、ポケモンセンターのトレードマークである赤い屋根……には擦りもしない、ごく普通のビルだった。

中に入って、エレベーターで20階まで登り、廊下のT字路の一本を塞ぐ屈強なガードマンの前に立つ。

ガードマンのそばに立つエルレイドが一瞬アビスを見つめた。

「証明書類はお持ちですか?」

「これで大丈夫でしょうか」

アビスが研究員証を見せると、ガードマンは何やら機械を差し出してきた。

板状の光る機械にアビスが研究員証をかざすと、ぴーと無機質な音が鳴る。

「確認しました。この先の曲がり角を曲がりましたらモンスターボールから全てのポケモンをお出しください」

パソコンを確認すると、ガードマンは道を譲った。

アビスはすたすたと歩いて行って、曲がり角を曲がった。

エルレイド、ふういん」

アビスの背後の空間がモザイクをかけたように歪む。

サイコパワーが固まり、左右の壁と同じような壁が作られた。

「す、すごいな」

サイコパワーの研究をしている者として、研究心が出てしまったのだろう。アビスは壁をペタペタと触り始める。

「……あの、モンスターボールを全て出していただけますか」

「あ、っと、すみません」

進んだ先にいた、同じような体格のガードマンに声をかけられた。

腰からモンスターボールを外してボタンを押すと、私が飛び出した。

ガードマンもその隣にいるレントラーも、私の右手を見ても眉一つ動かさない。

レントラー

ガードマンが呼びかけると、レントラーの瞳が黄金色に輝き始める。

透視能力で隠したモンスターボールがないかを確認しているのだろう。

これも安全のためだ。

「……ではこちらのエレベーターから地下2階へお進みください」

ガードマンの誘導に従ってまたエレベーターに乗り込んだ。

エレベーターの運ぶ先は、病院の受付にしてはやけに薄暗い、そんな場所だった。

待合室のはずなのに椅子の間には厚い仕切りがついていて、他に待っているニンゲンもポケモンも確認できなかった。

受付を済ませると、待合室の部屋の一つに私たちは座らされた。

周りは壁もカーテンも不自然なくらいに真っ白。

虫歯のポスターが貼ってあったり、見た目は普通の病院のようだったが、照明のせいか、どこか薄暗かった。

何もせず座っていると、どうにもやはり右手が気になった。

指を動かそうとしても金縛りを受けたようにびくともしない。

握り込むと、痺れるような痛みが起こる。

私がそわそわしているのがアビスにもわかったようで、アビスはゆっくり口を開いた。

「ほんとはあんまり連れてきたくなかったんだ。裏のポケモンセンター

その言葉に聞き覚えはなかった。

他の人に聞こえないようになのか、アビスは声を潜めて話し続ける。

「科学の実験で失敗して怪我をしたりとか、普通のポケモンセンターに連れて行くと問題になりかねない事情がある人だけが集まってるポケモン診療所だから。……言ってもわからないかもだけど」

「ここで診察すると、私とフーディンの情報が登録されちゃうんだ。もし私に何かあったら、その情報を辿ってフーディンを引き取りに来るかもしれない。そうしたら何されるかわからないし……」

後から考えれば、相手の施設の中で相手の悪口を言って大丈夫だったのかはわからない。

私と何か話そうとして、頭の中がそれでいっぱいだったからそのことしか話せなかった、のかもしれない。

そうこうしているうちに、看護師さんが私たちのところまで呼びに来た。

待っている他の人が名前を聞かないようにだろうか、徹底している。

看護師さんの誘導に従って診察室に入る。

少し恰幅のいい白衣の中年男性がパソコンの前に座っていた。

横に立つ看護師さんが椅子を二つ、医者の前に並べる。

「どうぞ、お座りください」

フーディン、ここに座って」

アビスが医者の目の前に座り、私はその横に座った。

「さて、進化不全とのことですが……ひどいですね。症状は右腕だけですか?」

「はい、一通り見ましたが恐らく右腕だけです」

「わかりました。痛みなどを確認したいので、触診させていただきたいです」

フーディン、痛いかもしれないけど、少し我慢しててね。右手を見せてほしいの」

「でぃん」

医者に右手を差し出す。

医者が慎重にスプーンに手をかける。

2本に分かれたスプーンの片方を少し動かされた瞬間、電流を浴びせられたような痛みが走った。

「ふでぃっ!」

思わず声を上げると医者は慌てて手を引いた。

その後も慎重に触診が続いたが、スプーンを触られた時だけ激痛が走った。

「……わかりました、次にレントゲン写真を撮りましょうか」

その後、いくつかの機器で私は調べられ、また診察室で最初のように座らされた。

「このレントゲン写真を見ていただくのが一番早いと思います。くっついてしまった手がこの2股のスプーンをぎゅっと握り込んでしまってまして、恐らくここにそのまま神経が通ってしまっています。握り拳にそのままスプーンを突き刺したような、そんな状況になっていると思っていただければ」

アビスの顔の血の気がさっと引いた。

「スプーンは触ると痛いようですが、体と一体化していて神経が通っていたり、というわけではないようです。拳自体は触っても痛くないようなので、やはり今言ったような感じになっているかと。」

「……な、治りますか?」

「治る見込みは正直言ってありません。手を切開してスプーンを外そうにも、フーディンにとってのスプーンはニンゲンにとってのスプーンとは意味が違います。フーディンはこのスプーンを使ってサイコパワーの出入りを管理しているんです。外部に位置しますが内臓のようなものでして」

「……はい」

声が震えていた。

「取り去ってしまうと、恐らくサイコパワーは使えなくなってしまうかと思われます。進化したてとのことで、フーディンもサイコパワーでの移動に慣れているでしょうが、スプーンを切除する場合はそれができなくなるということです。スプーンを切除する術自体は可能ではありますが、その場合、術後にサイコパワーを使わずに移動するためのリハビリ処置が必要になりそうですね」

「…………」

「診察は以上になります。お役に立てず申し訳ありません」

「……いえ」

「痛み止めだけは出しておきましょう。錠剤は飲み込めますか?」

「あ、錠剤はまだ飲ませたことないです」

「わかりました、試すための錠剤少しと、あとは粉薬でお出しします。それではお疲れ様でした」

「……ありがとうございます」

私の肩に手を置いて、いくよ、と掠れた声で呟いて、アビスが席を立つ。

私は言われるがままについていった。



がちゃり、と玄関の鍵を閉めて、玄関に上がったところで、アビスはへたり込んだ。

両手で顔を覆って、肩を震わせる。

アビスの前に立って表情を確認しようとしたら、静かに抱き寄せられた。

「ごめんね……ごめんね……」

あるいは呪詛のように、謝り続ける。

「…………」

確かに手については不便だが、私はアビスのことを恨んでもいなかったし、そんなに謝られたってどうすればいいのかわからない。

「……でぃん」

アビスをサイコパワーで引き離す。

そうされるとは思っていなかったのだろう、アビスは目を丸くして私を見つめた。

私は左手を握ったり開いたりした。

左手は使える。

それから、近くにあった観葉植物の鉢をサイコパワーで持ち上げた。

進化してからこんな風にサイコパワーを使ったのは初めてだったが、難なく持ち上げることができた。

これも2回進化したおかげだ。

フーディン……」

アビスはしばらく呆然と私を眺めていた。

私もアビスを見つめ返した。

アビスは石像のようにしばらく動かなかった。

不意に、アビスの目がじわりと涙を含み始める。

くしゃっと表情が歪む。

ぎゅっとまた強く抱き寄せられた。

私のお腹あたりに顔を埋めて、アビスは泣いた。

嗚咽を漏らして、それから声を上げて泣いた。

ずっとずっと泣いて、それからアビスは立ち上がって、もう一度抱擁した。

今まで生きてきた中で、あの時が一番温かくて、優しかった。

第13話 満月

次の日からアビスは一人で研究所に行き、私は家で留守番をした。

来る日も来る日も、朝になればアビスを見送ったし、夜になればアビスを玄関で迎えた。

アビスは毎回決まって私の頭を撫でながら玄関に上がった。

夜の間は、楽しかった。

昼の間は、つまらなかった。

ずっと一人で、何をするでもなく時間を過ごすしかなかった。

アビスがいない間は何も起こらない。

真夏のうだるような暑さからはエアコンで守られていたし、食べ物も飲み物も欠かさず用意されていたから困りこそしなかった。

むしろアビスに守られて困らなかったからこその暇だったと今では思う。

手持ち無沙汰にサイコショックを練習して、失敗して部屋を荒らして怒られたこともあったな。

そんな暇な日を乗り越えたある夜。

アビスと夕飯を食べてからくつろいでいると、いきなり腹に響く爆発音が外で鳴った。

慌ててアビスに目を向けると、アビスは何の危機感もなくにこにことしていた。

「今日花火の日なんだね〜」

ハナビ?

知らない単語に私が目を丸くする。

アビスは席を立って大きな掃き出し窓を開け始めた。

ちょいちょいと私に手招きをする。

「……ふー?」

普段アビスから外には出るなと言われているから、出ていいものかと戸惑った。

「一緒にだから大丈夫。ちょっとだし。おいでよ」

そこまで言うなら、と私も掃き出し窓に近づいた。

ベランダに出ると、満月から少し欠けてきた臥待月が輝く空をアビスはじっと見上げていた。

真似して私も見上げたが、広がっているのは月と電灯以外絵の具を塗り広げたような黒一色。

何もないじゃないかとアビスを見ると、アビスは「見ててみて」と空を指さした。

仕方なくまた空を見上げると。

真っ黒なキャンバスに鮮やかなオレンジの花が咲いた。

直後、腹に響くような爆音が辺りに響く。

また空に種が撒かれて、今度は黄色の大輪が開く。

いくつもいくつも花が咲いた。

爆発音は少し怖かったが、それ以上に、色とりどりに咲き乱れる花々に見惚れた。

ふとアビスを見る。

アビスの瞳は花火を映して輝いていた。

こちらに気付いてアビスも私を見た。

「綺麗でしょ」

ふふ、とアビスは笑う。

慈愛に満ちた、とでも言おうか、あの優しい笑顔は今でも思い出せる。

しかしすぐにアビスはイタズラっぽい表情になって、

「よーしよしよし!」

私の頭を撫で回す。

頭を振って抵抗すると、「ごめんごめん」と笑いながらまた空を見上げた。

空は花畑のようにいくつもの花が同時に咲いていた。

「たーまやー」

ぼそりとアビスが何かを呟く。

アビスの呟きの意味は、当時の私にはわからなかった。

目を丸くしてアビスを見ると、アビスはまた笑顔で教えてくれた。

「花火が綺麗な時にね、こうやって言うんだ。たまやー、かぎやーって」

「…………?」

そう言われても当時の私にわかるはずもない。

「まーそうだよね。流石に進化しても人間の言葉わかるようにはなってるわけないか」

ざんねん、と大して残念そうでもない顔で肩をすくめて、アビスはまた空を見上げる。

その横顔を私はじっと見ていた。

少し、いや、すごく、悔しかった。



翌日食卓についた私は、テーブルの上にあったアビスの本を取った。

表紙に何が書いてあるかもわからないが、とりあえず開いた。

「お、本読みたいの?」

自分の分と私の分の食べ物を持ってきたアビスが食卓につきながら私を見る。

次の瞬間アビスは大笑いし始めた。

突然の笑い声に困惑して私がアビスを見ると、アビスは本を取り上げた。

「逆! 本の読む向き、逆さまだよ!」

本を元の向きに直してからもアビスはしばらく笑い続けた。

少し不満に思いながら私は先に朝ごはんを食べ始めた。

「あ〜、笑った笑った……ねぇフーディン

軽く頬杖をついて、にこにこと笑いながらアビスがまた私を見る。

試そうとしているような目だった。

「本、読みたいの?」

アビスと視線が交差する。

私は力一杯頷いた。

「ん、わかった」

アビスはひとつ頷いて、それからご飯を食べ始めた。

そのまま特に本の話はすることなくアビスは研究所に出かけていった。

夜、アビスは行きには持っていなかったものを持って帰ってきた。

何が入っているかわからない大きな袋を見ていると、アビスもそれに気づいた。

「これ気になる? じゃーん!」

アビスが袋から取り出したのは何やらたくさん文字が書かれたポスターだった。

「……でぃん?」

「文字ポスター! これで字を覚えて本読めるようにしようよ」

「ふーでぃ!」

「ご飯食べたら早速やろう」

晩御飯を食べてからアビスはポスターを壁に貼った。

「ほらこれ。手。手って書いてあるんだ」

「ふでぃ」

「うーん、覚えられてるかわかんないな。喋ってくれたらわかるんだけど……」

「でぃん……」

ポケモンはニンゲンの言葉を喋ることはできない。

アビスの言葉は私に伝わっても、私の言葉はアビスには伝わらない。

仕方のないことだ。

「あ、ねえねえ、テレパシーだったら喋れない?」

それはあんまり考えたことがなかった。やってみればできるかもしれない。

「でぃん」

『……手』

「聞こえた‼︎ 手!」

「ふでぃ!」

「もしかしたらフーディンと喋れるようにもなるのかな」

「でぃふ!」

アビスと喋れるようになったら、昨晩の花火のようなこともなくなる。

これは頑張らなければと思うと気合が入った。

「よし次! これは目! 目だよ」

『……目』

「うんうん、いい感じ!」

……それ以来私はニンゲンの言葉を猛勉強した。

昼のアビスを待っている間ずっと練習をした。

字を読めるようになるまではそう時間はかからなかった。

字を読めるようになったら、今度は本を読んだ。

全部読めたらアビスがまた別の本を買ってきてくれる。

それを楽しみに、全部読めるようになるまで何回も読んだ。

夏の暑さも落ち着く頃には、日常生活に困らない会話がアビスとできるようにまでなった。

お腹が減ったと言うこともできるようになったし、部屋が冷房で寒いと言うこともできるようになったし、おはようとも、ありがとうとも、ごめんなさいとも、おやすみとも、言えるようになった。

進化してからの生活にも慣れてきて、毎日が楽しくなってきた頃の、ある日。

私たちは夕ご飯も食べて、特に何をするでもなくテレビのバラエティー番組を見ていた。

画面の中では、司会のおねえさんとミルホッグがガヤガヤと喋っている。

ミルホッグが赤い布を被ったワゴンを奥から運んでくる。

『今日お話しするのは〜』

司会のおねえさんが赤い布を取り去った。

エスパージュエル!』

画面の前には純粋に濃い桃色の宝石が、照明を浴びてキラキラと輝いていた。

アビスがふいと目を逸らす。

一方私は画面に見入っていた。

あの輝きには、見覚えがあった。

私がまだケーシィの頃の、あのサイコパワーの実験をしていたときに、一瞬だけ出来た塊に少し似ていた。

そういえば進化して以来実験の話をアビスはしなくなったな、と思考が進む。

今でこそその理由が痛いほどわかるが、当時はその理由もわかっていなかった。

別に右手が使えないことと、サイコパワーの出力にはあまり関係がない。実験はいくらでもできる。

それに、あの頃アビスの役に立つのはとても楽しかった。

もう実験はしないのかな。

そう思った私は、アビスに直接言ってしまった。

『実験したい』

ちょんちょんと私に突かれてこちらをみていたアビスの頬が引き攣った。

アビスの目がぐるぐると泳ぐ。

『もう一回やりたい』

アビスと私の目は合わない。

「……やらないよ」

アビスはそっぽを向いて、弱々しく呟いた。

『なんで?』

当時の私はすかさず聞き返してしまった。

アビスは困ったようにうなだれて、しばらく床を見つめた後に私をはっきりと見据えた。

「もう、あなたに痛い思いも、不便な思いも、させたくないの」

『ゆめ!』

「……いくら子供の頃からの夢でも、あなたを傷つけてまで達成するものじゃない」

サイコパワーを使えるようになるのが、アビスの子供の頃の夢だった。

それを前に聞いていた私は、それを利用して説得しにかかる。

アビスは歯がみして、またそっぽを向いた。

ダメそうかもしれない、と思った私は、本当のことを言った。

『役に立ちたい』

「役に……?」

怪訝そうな表情でアビスがこちらを見る。

『実験、アビスの役に立った。今は、何もできない』

アビスはしばらく呆然としていた。

表情が変わらないまま、次第にアビスの目に涙が溜まり始める。

涙が一筋流れると、ダムが決壊するように、アビスの表情は崩れた。

ぎゅっと私は抱きしめられる。

「ありがと、ありがとね……っ!」

涙声のまま、アビスはありがとうと言い続けた。

結局実験はできるんだろうか、と思いながらも、私はアビスの背中を左手で撫でる。

時間にすれば10分ほども、アビスは咽び泣いていた。

やっと収まってから、アビスは私を離して、涙が浮かんだままの笑顔で。

「やれるようになったら、協力してね」

また今にも折れてしまいそうな細い声で言った。

「でぃん‼︎」

私は元気付けるように、大きく頷いた。



それから特に生活が変わることもなく、月が欠けてまた満ち始めた。

実験ができるようになったことは絶対に忘れなかったが、アビスを急かすのも嫌で話題には出さなかった。

夜不意に、明日は研究室に来て欲しい、とアビスに言われた。

その夜は楽しみでなかなか寝られなかったのを、今でもよく覚えている。

モンスターボールに入って研究棟まで行って。そこからは並んで歩いて、研究室まで。

すれ違った人は私のことをもう知っているのか、私の手を見ても何も言わない。

部屋の分厚い扉を開くと、中には見覚えのある薄緑色のテーブル。

前と違って体が成長していたから、アビスもテーブルの前を指して「ここで待っててね」と言って機械を取りに行った。

しばらくしてまた、飴を手に持ったまま、手と顎で押さえて大きな機械を持ってくる。

かちゃかちゃと機械がすぐに設定される。

「実験の方法は覚えてる?」

『覚えてる』

「そか」

よし、実験だ。

意気込みながら私は機械に向かった。

しかし、アビスはゴーサインを出さない。

もう実験はできるはずなのに。

「……?」

アビスの方を見る。

アビスはじっとこちらを見ていた。

「……私のためにごめんね」

透明で、ガラスのように割れてしまいそうな声だった。

ぶんぶんと私は首を横に振る。

「そう、だよね。……じゃあ、お願い」

アビスも機械に向き直って、左腕の時計に手をかざす。

フーディンサイコショック!」

合図とともに私はサイコショックを発動した。

空間が歪んで、無数の光点が出現する。

サイコパワーの粒たちを、2本の針の間に集約させる。

どんどん粒を発生させては真ん中に集めて、サイコパワーの塊を育てていく。

進化したこともあって、持っているサイコパワーはケーシィ時代に薬を飲んだ時よりもずっと多かった。

スライムのような桃色の塊を、手で握り固めるイメージで小さく圧縮する。

透明度の高い桃色だった塊は小さくなるにつれて、むせかえるような鮮やかなピンク色に変化した。

「……そろそろ、いくよ」

アビスが機械のつまみを回す。

ばちんと電気がサイコパワー塊を駆け抜けた。

急にサイコパワーが制御できなくなる感覚は前と同じように確かにあった。

違ったのは、制御できなくなるまでの時間が遅いこと。

電撃を浴びても制御を離さない力が、進化によって確かについていた。

サイコパワー塊はまたエスパージュエルのようにきらめいて、それから空中に溶けていった。

「……すごい、前までと全然違うね。フーディンすごいよ!」

アビスが嬉しそうに褒めてくるのが、何より嬉しかった。

『もう一回。まだやりたい』

「わ、わかった。じゃあもう一回協力してね。そしたらデータまとめるから、少し休み」

「ふー!」

私は機械に向き直った。



そうして同じ実験をして、アビスがパソコンに向かって何やら仕事をした後、アビスは昼ごはんを取り出した。

見覚えがある。いつもより少し赤っぽいポケモンフーズ。

「これ、食べたらちょっとだけ元気が出ると思う。もしどこか痛くなったりしたら、教えてね」

『わかった』

アビスと一緒にご飯を食べていくうちに、やはり体に少し変化があるのを感じた。

頭が活性化して、体がうずうずする。

今ならさっきよりも実験がうまくいく気がする、と当時も思った記憶がある。

アビスも私もすぐに昼ごはんを食べ終わって、また実験を再開した。

薬の効果は顕著に出ていて、サイコパワーの塊の色の濃さが午前の実験とは段違いだった。

電流が流れるたびにサイコパワーの制御が途切れてしまって、結晶が宙に溶けていく。

でも、ぎゅっと握りしめていれば、なんとかその制御を手放さずに済みそうな気がした。

何度も何度もアビスに次を頼んで、結晶を作り続けた。

結局その日の実験は成功することはなかった。

それ以降も、私が悪いのか、機械が悪いのか、実験はなかなかうまく行かなかった。

私の体力の問題もあって、実験がやれるのは一週間に一回程度。

秋、冬、春、夏、秋、冬、春、夏、秋。

早いようで、本を読んで色々なことを知ったり、長かったようにも思う。

ついに私のサイコパワーの制御が、電撃に勝った。

ぴきん、と辺り一帯を凍らせるような音を立てて、電撃を浴びたサイコパワー塊が、かくばった結晶の形に固まる。

天井からの光を一部だけ反射して、キラキラと透き通った濃い桃色がその存在感を伝えていた。

同時に私の体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。

「…………」

「…………」

「で……できたっ!」

「ほんとにできた! すごいよ……あ……」

倒れた私に気付いて、アビスの顔から笑みが消え失せる。

「……ご、めん、ごめんね……」

アビスが倒れた私に手を伸ばした。

私はその手を払って、左手を機械に向ける。

『……わかった』

無機質な白い床に倒れ伏す私からそっと手を離して、アビスは機械に乗っている結晶に手を伸ばした。

結晶が柔らかなアビスの両手にぴったりと収まる。

両手でサイコパワー塊を持つアビスの目がいっぱいまで開かれた。

緩んだ口元から赤いアメがこぼれ落ちそうになるのをすんでのところで受け止める。

「本当にできたんだ……」

瞳はキラキラと光を吸って輝いていた。

私もにっこりと笑う。

当時の誇らしかった気持ちは今でもよく思い出せる。

フーディン!! 成功だよ‼︎』

倒れる私の元にふたたび膝をつく。

私も一瞬だけにこりと笑った。

紫の塊を機械に押し当てて、アビスは目を瞑った。

しゅぴん、と空気の動く音。

機械とアビスの手のサイコパワーが消え去った。

『やっぱり、私にも使える……!」

何度も何度も過去を見返していても、それでも色褪せることのない、輝いた笑顔だった。

三度膝をついて、アビスは私に話しかける。

『ほんとに、ありがとう。フーディン……』

アビスは右腕で私を抱き上げて、左手で私の頭を優しく撫でた。

「……あ、データデータ!」

結晶をコトリと机に置いて、アビスはぱたぱたと機器の方へ走る。

カメラを覗いたり、パソコンのキーボードを叩いたり、嬉しそうながら忙しくし始める。

私は達成感と心地よい疲労に浸りながら、そんなアビスを眺めていた。

第14話 十六夜

あの実験以来、アビスは研究所に行くことが少なくなった。

代わりに、一日中家のパソコンに向かって唸っていることが多くなった。

研究したり実験したりしたものは、論文として発表しないと意味がない。

アビスはそう言って、夜の目も寝ずにひたすらパソコンに向かっていた。

私が寝る時にはまだ作業部屋の明かりはついているし、私が起きた時にはもう既に膨大なデータと格闘している、そんな毎日を過ごすようになる。

寝ていなそうな時もままあった。

なんでも、もうすぐある大きな研究発表会に間に合わせたいのだとか、そんなことを言っていた。

起きてから研究室に行くまでの朝の時間も、夜ゆっくりと月を見上げる時間も、なくなってしまった。

それでも少しでもアビスを応援しようと私はアビスの代わりに家事をやった。

右腕が使えなくともサイコパワーを使えば家事をすること自体は困らない。

それでも、ご飯を作ったり、洗濯をしたり、勝手がわからなかったから苦労した覚えはある。

同時に、私が小さな頃のアビスは私の世話をしながらこんな家事をしていたのか、と驚きもした。

ご飯を運んでいくと、アビスは申し訳なさそうな笑顔で、わざわざ舐めていたアメの棒を取って、ありがとうと毎回言ってくれた。

それに対して、「まかせて」と返事ができて嬉しかったのもよく覚えている。

一つ心当たりがあるとするなら、アビスの表情に段々と辛さが混じっていくのに気づけなかったこと。

睡眠時間までもを削ってひたすらデスクワークをしていれば、当然健康にいいわけがない。

……あの時に気づいておけば。

いや、あの時だけじゃない。どこかで気づいておけば、アビスと別れることはなかったかもしれないのに。



論文の話は、スムーズに進んだ。

アビスは無事に論文を書き切って、発表した。

三日前にミスが見つかって、ふた晩かけて直していた時のアビスは見るに耐えなかったがな。

それでも本番は上手くいったようで、研究発表会の日の夜はずっと上機嫌でいた。

普段はあまり飲まない酒も飲んでしまったりして、いつになく騒がしい夜だった。

翌日は私の定期受診の日だった。

例のポケモンセンターに初めて行って以来、一ヶ月に一回のペースで受診することになっていたんだ。

その日アビスは体調がすぐれない顔色で、私は検診には行かなくてもいいんじゃないかと、休んだ方がいいと相談した。

アビスは決して首を縦に振ってはくれなかった。

アビスは私のためになると絶対に妥協してくれなかった。

その日も、いつものように裏のポケモンセンターに出向く。

「ご飯は食べられてますか?」

『食べた』

テレパシーを使って自分で受付での問診に答えて、待合室に座る。

横にどさっと落ちるように座ったアビスは明らかに私なんかより病院に行くべきだった。

『……大丈夫?』

「……うん、大丈夫」

いつもより荒い呼吸からしても、どう見ても大丈夫じゃないのはわかっていたが、今更どうすれば休んでもらえるかなんて思いつかない。

所在なく不自然な白一色の周りを眺めていた。

刹那。

ヒュウウ、と限界まで息を吸う音が隣から聞こえた。

驚いてアビスの方を振り向く。

三白眼。

限界まで開かれた、生気のない瞳。

アビスの青ざめた顔は、明らかに魂の存在しない形相だった。

アビスも微動だにしなかったし、私も金縛りを受けた時のように体が動かなかった。

時の歯車が奪われて世界の時が止まってしまったみたいに。

そのまま、まるで動力を失った機械のように、真横に倒れ伏した。


裏のポケモンセンターといえど医療施設。

ニンゲンの病院とのコネクションはあったようで、アビスはすぐさま救急搬送された。

倒れた原因は、睡眠不足もそうだろうが、最初に話したな。

あのいかりのこなのせいだ。

睡眠時間を削ってなお作業がし続けられたのは、いかりのこなの興奮作用、覚醒作用のおかげだ。

後から私が過去を見た時に知ったことだが、論文を書いている間、アビスはいつもの2倍近くの量のいかりのこなを入れてアメを作っていた。

もちろん私が寝ていた深夜にな。

摂取時間も起きている間はほぼいつもだから、慢性的だった。

摂取量が急激に増えて体に悪影響が起きないわけがない。

あとは、もしかすると前日に珍しく飲んでいた酒も最後の一押しになったかもしれない。

とにかく、いくつもの不健康が重なってアビスは倒れてしまった。







脳出血、ですかね……?」

「脳だけじゃない。体内の出血が多いな……原因がわからない」

「胃壁がキラキラ光っていたのは……」

「あれも血、か……? いや、わからない」

医者と看護師がパソコンの画面を見ながら困惑しているのを、私は眺めることしかできなかった。

アビスは無事なのか、気が気でなかった。

「原因不明……ですかねぇ」

医師の諦めの声が聞こえてくる。

医師たちから目を離して、真っ白なベッドに横たわったアビスを見やる。

ぴくり、左手のあたりの毛布が少し盛り上がった。

「ん……ぁ……?」

うめき声。

もしかして起きたのか?

アビスが今度は頭をあげた。


『起きた! アビス、起きた!』

医師たちへテレパシーを飛ばす。

「だ、大丈夫ですか⁉︎」

看護師さんが小走りに歩み寄る。

「ぁ……え……っ⁉︎」

いきなりアビスが飛び起きた。

心電図を測っていた器具がポロポロと外れ落ちる。

まるで目の前に殺人鬼でも降ってきたかのような、恐怖と絶望の入り混じる表情。

看護師さんも、予想外の出来事に面食らって立ち止まる。

それでも、病人がいきなり起き上がってはいけないとまたアビスに近づいた。

「や……く、来るなっ……‼︎」

アビスは毛布を蹴り飛ばし腕を振るって、近づく看護師に抵抗する。

アビスの腕に当たった点滴の器具が甲高い音を立てて床に倒された。

「アビスさん、大丈夫ですか⁉︎」

「来るなぁ……っ‼︎」

さらに近づく看護師さんから逃げ出すように、アビスは足を縮めて立ち上がろうとする。

しかしまだおぼつかない足元に体勢を崩した。

「ふーでぃ‼︎」

ベッドから転落するアビスを、間一髪、サイコパワーで受け止める。

床に倒れ伏した後も、這いつくばって動くアビスを看護師さんが抱きかかえた。

「は、離し……てっ!」

看護師さんが押さえてもなおアビスはオニゴーリのような形相で暴れ抵抗する。

最後の抵抗に思いっきり振われたアビスの頭が看護師さんの肩に直撃する。

一瞬肩を押さえた看護師さんをそのまま突き飛ばして、アビスも反動で床に倒れ込んでしまった。

アビスが豹変した衝撃からやっと立ち直って、私もアビスの元に駆けつけた。

『……アビス‼︎』

テレパシーで強く名前を呼ぶ。

立ち上がれない足を引きずって逃げようとするアビスが少し止まった。

アビスの元までテレポートして、アビスの体をサイコパワーで起こした。

そして、ずっとずっとアビスがしてきてくれたように、アビスを抱きしめる。

アビスは、はじめ抵抗しようとしていたが、だんだんと落ち着きを取り戻し始めた。

『アビス……だいじょうぶ。なにもない』

呼びかけると、アビスが私の背中に腕を回した。

アビスが昔してくれたように、ゆっくり左手で背中を撫でる。

平静を取り戻したのか、しばらくするとアビスはまたすやすやと寝息を立て始めた。

様子を見て近づいてきた看護師さんと協力して、アビスをベッドに寝かせる。

看護師さんが外れてしまった器具を付け直し始めて、私は少し離れた。

「意識混濁まで……一体何が……」

医師がほぞを噛んだような表情のまま、眉をひそめる。

「……ひとまずは大丈夫そう、ですかね」

「あぁ。さっき落ちてしまた分の点滴は取って来てくれるかな。私は一旦戻るから、点滴を置いたら診療室で」

「分かりました」

何やら話して、医師も看護師も去っていってしまった。

後に残されたのは、何事もなかったように寝るアビスと私だけ。

何かしようかと少し悩んで、はっと閃いた。

次に起きた時に喜んでくれるだろうと、アビスの赤いアメを持ってくることにしたんだ。

この時は当然まだあのアメに潜む悪魔に気付いていなかったからな。

家までテレポートをした。

アビスがアメをいつもどこにしまっているのかは知らないので、探すしかない。

リビング、台所、風呂場なんかも。

家中をくまなく探し回ったが、なかなか見つからない。

あと探していないのはアビスの作業部屋だけ。

多分ここにあるだろうなという気はしていたが、一番最後にしてあった。

この部屋に入るのは、アビスと一緒にいる時だけにしてくれとアビスからはキツく言われていた。

大事な研究データを何も知らないポケモンが触って何かがあってはいけない。

もちろん私もそれを納得していたから、入るのが躊躇われた。

でも今は、病床に伏せるアビスを少しでも安心させたいし、喜ばせたい。

意を決して、扉を開けた。

アビスと一緒に入ったことは何度もあるから、中は見慣れた光景だ。

棚に所狭しと並べられる資料には絶対に触れないように気をつけながら、部屋を見渡す。

目につく場所にはなさそうだ。

机の下の引き出しに左手をかける。

中に何か振動に弱いものが入っていてはいけないので、慎重に開けた。

ひとつ。文房具やらキーホルダーやら、小物が小さい袋に分けられてしまわれていた。

ふたつ。資料の紙だらけ。

みっつ。

……あった。キラキラと光る、深紅のアメ。

全てを知ってからもう一度見ても、手作りだとは思えないくらい丁寧にラッピングがされている。

それをあるだけ左手に握りしめて、またテレポート。

アビスの隣に戻ってきた。

薬が置かれている小さな丸テーブルの上に、持ってきたアメを優しく置いた。

他にやれることはなんだろう。

立ち尽くして考えても、何も思いつかなかった。

今更のようにどっと疲れが体にのしかかってきて、私はその場に座り込んだ。

アビスの肩の横に左腕だけ置いて、前から突っ伏す。

右手は痛くないように、膝の上。

——アビスは大丈夫なんだろうか。

——私が外に出ることを反対していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

——アビスの顔色の悪さには気付いていたんだから、途中で帰ろうと言うこともできたかもしれない。

——私のせいで迷惑をかけてしまった。

——それに、なんでアビスが体調を崩さなくちゃいけないんだろう。

——あんなに頑張っていたのに、悪いことが起こるなんて。

当時考えていたことは、今でも思い出せる。

そんな風に頭の中をぐるぐると嫌な思考にかき乱されているうちに、私は眠りに落ちていった。


第15話 新月

「buzzzzzzzzzzzzzz」

いきなりポリゴンZが異音を立て始め、私の意識は過去から現在に引き戻された。

「どうした?」

「rrreceivvvvved commmmanddd」

カクカクとぎこちなく右に首を動かしたかと思えば、いきなりぐるぐると左に猛回転し始めた。

「needtoreturn!needtoreturn!needtoreturn!」

急浮上してポリゴンZは真っ暗な夜空に飛んでいってしまった。

あまりに唐突の出来事に、しばらく呆然とする。

……一体なんだったんだ。急にいなくなって。

それに、話はもうすぐ終わるはずだったんだがな。

聞いてくれているなんて思っているわけではなかったが、最後まで話させて欲しかった。

昼間のサーナイトといい……ままならないものだな。

——貴女は今、何をしているんでしょう。

日没からずっと遅れて昇り始めた薄い薄い月が焼け石に水程度に照らす、暗黒の夜空を仰ぐ。







ふいと目が覚めて起きたら、貴女がいましたね。

——あ、起きた?

いつもと変わらない明るい声で、覚醒しきっていなかった頭が完全に起きました。

顔を上げると、貴女は真っ赤なアメを口から外して。

少しだけ申し訳なさげな顔をしながら、にっこり微笑んで。

——アメ、持ってきてくれたんだよね。探すの大変だったでしょ。……ありがとね。

貴女は全部全部見抜いていました。

——ね、お願いがあるの。

貴女は少し真剣な顔。

なに、と返すと、貴女のお願いは、部屋の扉をしばらく開かないようにすることでした。

当時覚えたばかりのわざ「ふういん」で扉を固定しました。

——ありがと。そしたらこっち来て

言われるがままベッドの横に立つと、貴女はいつも着ていた白衣を脱いで。

——ほら、後ろ向いて。そう、そのまま手を通して。右手はごめんね痛いかも、これで腕通るかな。

ぬくもりの残ったその白衣を、着せてくれました。

——こっち向いて。……よし。似合ってる。

うんうんと小さく頷いてから、今度は右手の時計を外し始めて。

——ほら、これもつけてあげる。

左手に貴女の重みを感じる腕時計がつけられました。

いきなりどうしたんだろうと困惑していると、それもわかっているという風に説明してくれましたよね。

——それを私だと思って、ずっと持っててくれたら嬉しい。

貴女は、涙ぐんでいるのを我慢するような、辛そうな笑顔。

別れを察するのくらい容易でしたから、首を横に振って抵抗しました。

——お願い。持っていて。

今にも笑顔は壊れてしまいそう。

でも、引き下がることはできなかった。

ずっと一緒にいたい、と。拙いニンゲンの言葉の語彙で伝えました。

貴女の笑顔のダムはついに決壊して。

くしゃくしゃの泣き顔で、貴女は叫びましたね。

——逃げなさい! ここにいちゃダメ……‼︎

——ここからずっと東の方に、ポケモンだけが住む森があるの。そこまで逃げなさい。東は、もうわかるよね?」

初めてみる貴女の表情に驚いたことは、今でもよく思い出せます。

それでも別れることなんてしたくなくて貴女の腕にしがみついたら、貴女は力なく首を横に振りましたね。

——ここから、出ていって……!

——じゃないと、あなたはこのまま実験ポケモンとして使い捨てられちゃうから……。早く……。

聞くに耐えない、震え声でした。

病院の真っ白なシーツに、次々とシミが作られて。

もう選択の余地はありませんでした。

頷いて、少し貴女から離れて。

そして、テレポートを発動しました。

サイコパワーの桃色に包まれる視界の中で、最後に見た貴女の顔。

忘れません。

涙に濡れながらも、私のことを思った、慈愛に満ちた優しい笑み。

忘れられません。

貴女の意思を反故にはできなくて、それから二度と貴女に会うことは叶いませんでした。







省略した部分も多々あれど、これが私とアビスの全て。

……アビスとの最後を思い出すと、やっぱりどうにも涙が堪えられないな。

とっくに枯れたと思っていたのに。

ポリゴンZが消えていった、上空の闇を見つめる。

……嫌な予感がする。

どうしてだか、全くわからないが、背中から黒くおぞましいものが這い上がってくるような、そんな気持ちに駆られた。

抑えきれなくて、誰にともなく、問いかける。

……未来を、視ますか?

——いいえ。

どんな惨い未来が待っていても、受け入れようじゃないか。

黒い雑念を振り払って、私は横になって眠りに就いた。







翌日。

腹に響く足音の数々を受けて、私は目を覚ました。

「あそこよ!」

足音たちは、真っ直ぐこちらに向かってくる。

どうせこちらにくるのなら、私が動く必要はあるまい。

私はゆっくり起き上がって、洞穴の奥で静かに座っていた。

みるみる間に洞窟の入り口に、ポケモンたちが集結していく。

ニドクイン、ガラガラ、ハハコモリマフォクシー……。

森に住む親のポケモンたちばかり。

マフォクシーは、もしかするとあのフォッコの母親だろうか。

その先頭に、サーナイトが降り立った。

「森の子供に危険思想を植え付けるのをやめなさい!」

サーナイトが高らかに宣言する。

そうだ、だの、やめろ、だの、後ろのポケモンたちも口々にヤジを飛ばす。

「危険思想というのは、ニンゲンのことか?」

「当たり前でしょう!」

サーナイトが腕を振り払って一蹴すると、今度はマフォクシーが前に出てきた。

「うちの子なんて、ニンゲンの街に行ってみたいって言い出したのよ!! そんな、死にに行くようなこと……」

いくつもの視線が私を睨んで突き刺す。

「……私は事実を伝えたまで。歪んでいるのは、この森の風習です」

矢も盾もたまらずに、といった表情で、後ろのニドクインがヘドロ爆弾を放ってきた。

光の壁で難なく防ぐ。

「私たちはあなたを、ニンゲンと同じように討伐するつもりで来ました。この森を出て行かないというのであれば——殺します」

そう言い放ったサーナイトの目に躊躇いはなかった。

「……森のポケモンたちは、簡単に命を散らすように、教えられていくんだな」

低次元な皮肉しか、言うことができなかった。

エメラルドグリーンの矢が空間を切り裂いて飛んできたのを、同じくサイコショックで撃ち落とす。

「簡単に、ではありません。私たちならともかく、森全体の子供の命の危機となれば、見過ごすことはできません」

外の殺意が洞窟になだれ込んでくれば、抵抗の隙すらなく殺されてしまうことくらい誰にでもわかった。

「……いいだろう。ポケモンを殺した親を持っては子供もかわいそうだ。私が、出ていこう」

洞窟の入り口に光の壁を展開する。

作られた1人の空間。

——私はもうこの世界には不要。……どこへでも、飛んで行こうじゃないか。

ポリゴンZになんとなく全部話したくなったのはこのためか。最後に全部が思い出せて、よかった。

テレポートを始動する。

まだケーシィだった頃以来の、座標指定をしないテレポート。

あの時とは桁違いのサイコパワーの量を持ってすれば、この世界のどこに飛ぶかもわからない。

これくらいの大博打が今の私にはお似合いだ。

——パリン。

駆けつけた親たちを全て止めていた光の壁が、突如破壊された。

私も驚いてテレポートを中断してしまう。

フーディンさん!!」

「おいフーディン!」

それは、ここ数日でよく耳にした声。

飛び出したリオルの手刀はオレンジ色に輝いている。

恐らくかわらわりひかりのかべを破ったのだろう。

あまりに唐突な出来事に、親たちでさえ置物のように唖然としていた。

そんな光景の中、リオルとモノズは目一杯に息を吸って。

「僕、フーディンさんのお話、忘れません!」

「俺もおまえの話、楽しかった‼︎」

胸がいっぱいになる、というのはこの感覚だろうか。

息が詰まって、少し喋ることができなかった。

「……確かに悪いニンゲンがいるのも事実だ。……だが。彼らとて、私たちと同じように心を持っているんだ」



「ニンゲンもポケモンも、同じなんだッ‼︎」



我ながらしわがれた声で、精一杯叫び返した。

間髪入れずにテレポートを再開する。

我に返ったサーナイトに慌てて引き寄せられるリオルとモノズを最後に、私の視界は桃色に染め上げられた。







……ここは?

暗い。

冷たい。

水の中……深海だろうか。

海中は予想していなかったな。

最後の最後まで科学に溺れたままの自分には、お似合いの死に方かもしれないな。

走馬灯のように……ではないな。

走馬灯が。アビスとの暮らしの日々が脳内をすさまじい勢いで駆け巡る。

それから、少しだけ、森のポケモンたちと関わった記憶も。

真っ暗な世界の中、できないとわかっているのに浮かび上がりたくて。

私は沈み行く方法と反対側に真っ直ぐ手を伸ばした。


そして、私は目を疑った。

上から腕を真っ直ぐ私へと伸ばして沈んでくる、人影。

真っ黒に塗りつぶされた深海を割く満月のように白い肌。

うっすらと朱に染まった小さな頬。

優しく曲がった瞳の下には、不摂生で消えることのない隈。

アビス。

あぁ、やっと。

やっと会えた。

長かった。

もう二度と、会えないと思っていた。

会えた。

心の器が温かい色の感情でぐちゃぐちゃに溢れて、訳がわからない。

なお沈み行く私にアビスは追いついて、優しく抱きしめてくれた。

温もり。

この世で一番安心できる場所。

顔は私の横にあるはずなのに、あの慈愛に満ちた笑みが瞼の裏に焼きついて離れない。

腕をアビスの背中に回して、顔を肩に寄せると、目が燃えるように熱くなって。

涙は、真っ黒でとても温かい科学の海に混ざって消えていった。


あとがき

「双頭のスプーン」は以上で完結となります。
全体を通してかなり重めのストーリーでしたが、このお話を通して皆さんの好きなポケモンが増えたなら嬉しいです。
誤字脱字・考察・感想などございましたらTwitter(@kurosana309637)までご連絡ください。

※あそべるえほん「しまめぐりにいきたい3びき」
ポケットモンスター ウルトラサン・ウルトラムーン」にて、作中の「1番道路 トレーナーズスクール」建物3階の休憩室で読める絵本をそのまま引用させていただきました。





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